2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.25

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2024.1.25

明日は午前中の飛行機に乗るので、今日が実質のイタリア最終日。ルッカを昼前に出てこの旅の最終地ピサへ。他の旅行者たちに漏れず、ピサの斜塔前でポーズを決める。マーティン・パーの写真を思い出す。世界でもトップ5に入るほど有名な観光地だけに、観光客も群がっている。しかし、こうやって本やネットで見ていたものを現実に目の当たりにする経験は本当に大切なのだろうか。ぼくは、訪れる体験が自分の目と心を豊かにしてくれると信じている。それをぼくが信じないと、ぼくがなんのためにここにこれを見に来たのか、ぼくの好奇心や欲求は出口を見つけられないまま亡霊のように彷徨ってしまうのだ。現代において、「本やネットで見ること」と「実際に見る」という行為のバランスや価値基準が揺らぎ始めている。実際に見ることによってそれが存在したんだという感動はあるが、その建物の妙というか、例えばピサの斜塔が傾いていること自体が虚構のように感じ取れるのだ。それが1173年に建てられたものであっても、今やアトラクションのようで、どうもディズニーランドの建物との違いがわからなくなってしまうのだ。ピサの斜塔が本物で、ディズニーランドの城が偽物であるのは何故か。そもそもディズニーランドの城が偽物なのだろうか。何が本物で、何が偽物なのか、歴史をくぐり抜けてきたということだけが素晴らしいのだろうか。認知度だろうか、規模だろうか、素材だろうか、先人の知恵だろうか、先にあったから素晴らしいのか、贋作の元ネタとなっているからか、人々の思考を育ててきたからか、もしくはただの見る人たちの気分だろうか。現代を生きるぼくたちには何が本物で何が偽物なのかを見る目と頭と心が失われているような気がするのである。少なくとも自分自身には明らかに本物が何かを見る目が欠落し始めているように思うのだ。だから、見にくるのかもしれない、それは好奇心と呼ぶこともできるし、本物を知りたいという欲求とも言えるだろう。ピサの斜塔を見ていると、エジプトのピラミッドやイースター島にあるモアイ像なんかも実際にこの目で見てみたいなという気分にさせられた。
ピサ、これまでのコムーネよりも明らかに人が多く、観光名所ピサの斜塔のあるエリアから少し離れると学生ばっかりが目につくようなエリアがあり、さらには住人たちが立ち話をしている姿にも出くわすことができる。さすが中世最大の都市である。そんなエリアにあるカフェのテラスで街を流れゆく人々に対して、川の上流にある石のようにテラスの椅子に二人でエスプレッソとピッコロドルチェを片手にズドン腰を下ろし、そこを流れる人々を観察して夕暮れを過ごす。これがこのイタリア旅行で見る最後の夕焼けである。人々が流れゆく姿は中世最大の都市の風景に負けず劣らず美しい、さらに夕焼けもそこには姿を見せていた。このコムーネの壁もまた歴史を知っている。1000年前にあったもので今なお存在しているのは壁だけなのだ。今ある風も光もカフェもぼくたちも流れ行く人々も1000年前にはそこには存在しなかった。夜は、このたびで初めてピッツァを食べる。PISA SCのジョカトーレたちと席が隣になり、オーラーの勧めで記念写真を撮った。
オーストラリアに住む友人から「I miss being in a place with a long culture and history. Sydney is a bit void of any of that(長い文化と歴史のある場所にいることを懐かしく思う。シドニーにはそういったものが少し欠けていると思う)」とメッセージが来た。ぼくは、
「I don't think history and culture are essential. more important is like how you like where you are, feel proud of being where you are. However, culture and history often help you to feel proud where you are.(歴史や文化は必須ではないと思う。もっと重要なのは、自分がいる場所が好きか、自分がいる場所に誇りを感じるかということなんじゃないか。文化や歴史は、自分がいる場所に誇りを感じるのに役立つけどね。)」
と返事をした。約3週間イタリアにいたぼくにはそう感じる。少なくともここイタリア中部に住む人たちからは、歴史や文化を重んじる以上に、自分の街に対する誇りや自分の街を持っているという明確な意識を感じるのである。そこに住む多くの人々が、「ここが自分の街だ」という場所、それを素晴らしいと思わないか?