2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.24

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2024.1.24

 昨日、Autostradaの改札で、お金を入れてゲートが開いた時に「arrive derci」と表示された。思わず、聖子ちゃんに「アリーヴェデルチ!」と叫んでしまった。ついに、スペルがわかり、意味を調べることができた。音だけで覚え、どのタイミングで使うのかもわかっていたのだが、意味を知らなかった。意味を調べられない時に、「ごきげんよう」とかそういう意味だったら笑えるねという話をしていた。スペルがわかり、語源を辿ると「私たちがまた会う時に」というようなイカした意味だそうだが、直訳できない別れの挨拶のようである。ロベルト・ロッセリーニ監督の映画でイタリア語を覚えたら、小津映画で日本語を覚えたフランス人のように日常生活の中で「あら、ハイカラですこと」とでも言うのだろうか。そんな言葉使いをするイカした日本人がイタリアにいたら、喜ばれるに違いない。ぼくだったら大喜びだ。
昼前に電車でルッカに到着。荷物の重さと疲労感が、旅も終盤に差し掛かっていることを感じさせる。ぼくがこの街に来たかった理由は、村上春樹のTVピープルという短編小説集の中の『我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史』にこの街のレストランで食事をする描写が出てくるからだ。
「たぶん彼はずっと前から誰かにその話をしたかったのだと思う。でも誰にもできなかったのだ。そしてそれが中部イタリアの小さな町の感じの良いレストランでなかったら、そしてワインが芳醇な八三年のコルティブオーノでなく、暖炉に火が燃えていなかったら、その話は話されずに終わったかもしれない。でも彼は話した。」
たったそれだけではあるが、この短編は今ぼくがプロジェクトとして取り組んでいる「民間伝承」についての物語じゃないかと思うからである。ぼくたちの行った街で一番人気のトラットリアには、芳醇な八三年のコルティブオーノはなかったが、人懐っこくぼくをいじり倒しいてくる女性スタッフのサービスを楽しみながら、小さな街の人気店に揃ってみられるような濃密な時間を過ごした。
ぼくが、その他にルッカという街について、知っていることは多くないが、この街が音楽家、特にジャズミュージシャンにとってのメッカとなっていることは知っている。音楽家の多くは、この街がオペラの作曲家ジャコモ・プッチーニの生地であるということを由縁としているのだろうが、そのプッチーニに憧れて、このコムーネ、ルッカに来て、ここでドラッグ所持チェット・ベイカーがここで投獄されたこともとても大きいのだろう。中世に建てられた街全体はぐるりと城壁に囲まれ、東西南北にゲートのように塔が立ち、静けさをまとった建物に隠れるように石畳の細い路地が木の根のように張り巡らされている。そんなコムーネで、民衆は刑務所の壁に耳をくっつけて昼の演奏を聴いたという。このコムーネでぼくたちも刑務所の壁に耳を当ててみることにした。音楽がもうそこにないとしても、100年後にはぼくたちは誰も残らない、その音を聴いたのはこの壁だけになるのだ。このコムーネには、その音と息吹の染み込んだ壁だけが存在するのである。
ぼくは、民間伝承をテーマに作品を作ろうとリサーチをしているのだが、民間伝承はそのストーリーが実際に起きたことなのか、もしくは全く起きていないことなのかに関係なく、話継がれる間に人々が勝手にストーリーを大袈裟に作り変えていったり、きちんと伝わらずに捻じ曲がってしまったようなものが多い。
そこに実際に起きたこと=真実という構図がなくとも人々に伝わっていく中で、信じられることで真実に変わっていくような気がしているのだ。実際に起きたことよりも人々のよって語られることが真実であるとするならばそれは人生を生きる上でとても面白いテーマになりそうだなと思っているのだ。たとえば、奈良の柳生一刀石を柳生石舟斎が天狗と試合中に一刀両断に断ち切ったという話もそうだ。イチローが小学生の頃に30m先の女の子にリンゴを投げたらランドセルに当たった、それで「よし野球選手になろう」と思ったとか、そういうのも本人が語っているうちは民間伝承にはならないが100年後、彼の死後にはまた捻じ曲がった形で伝えられ、きっとそれは30mではなく50mとなったり、リンゴを木からもぎ取ったとか、そんな風に真実を横目にどんどんと捻じ曲がっていくのだろう。ぼくは、そんな民間伝承や歴史のストーリーに人々の想像力と敬意を育てる力があるのではないかと思っているのである。