2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.23

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2024.1.23

車の運転にも随分慣れてきたが今日でひとまず運転も最終日。免許取り立ての頃に「慣れた頃が一番危ない」とよく父親に言われていたことを思い出す。
朝、Assi Barでピスタチオクリームの入ったブリオッシュとカプチーノ。聖子ちゃんは、クリームの入ったペイストリーとカプチーノ。ここでは、というかイタリアに来てからというものの、日本人扱いも外国人扱いもされない、親切でもなければ、嫌なこともほとんどされない。どこから来たのか、何人なのか、何も聞かれず、そこにずっと存在するであろうあるリズムの中に組み込まれる。これが、ぼくはすごいことだと思うのだ。歓迎も嫌厭もしない、レイシズムはいつだって問題になるが、イタリアではレイシズムなんて言葉が存在するのかと思ってしまうほどに、何も起きない。こんな有色人種の一人もいないようなコムーネのみんなの溜まり場であるAssi Barでも何も起きない。レイシズムさえない。容赦無くイタリア語で語りかけられ同等の扱いを受ける。
ぼくは海外に生活をするとポジティブにレイシズムを感じることが多い。たとえば、日本人だから家を貸してくれたり、綺麗好きと思われたり、文化的側面で共感してもらったり、そんなことはよくある。そして、その恩恵を受けてこれまで生きてきた。ぼくはそれをポジティブレイシズムと呼んでいる。ボジティブレイシズムを受けることが、ぼくは自力をつける壁になることがあると常々思っているのだが、別に生きる上では悪いことではないのだろう。自分の価値とか受けた生を最大限に活かせるのか、人生が与えてくれるものを受け取ることができるのかと考えた時にポジティブレイシズムは時に大きな壁となりぼくたちの邪魔をするのだ。
パンザノ・キャンティにあるDARIO CECCHINIで、ランチ。牛を丸ごと食べることをコンセプトとしたお店で、肉屋の裏でランチができると言ったようなもの。ランチのスタート時間は一日一回13時のみで、予約しているお客さんはみんな一斉に食事をスタートする。大皿に用意されたものを配膳のお兄さんが全員のテーブルを回って皿に載せていく。タルタル、カルパッチョ、ステーキといったようなコースになっている。隣り合ったのが、定年退職を迎えるであろう年齢のイタリア人夫婦と30代後半の新婚オーストラリア人夫婦のグループで、何で知り合ったのかはわからないが、初対面のようだった。イタリア人夫婦は、拙い英語で色々なことを説明している。イタリア人女性が「ジェノヴァ」に住んでいたと話をしたところ、オーストラリア人夫婦は「ジュネーブね!スイスランド」というが、イタリア人夫婦は「ノーノー、ジェノバ!」と妙に会話が噛み合わないので、気になってしまい、聞き耳をたてていた。英語ネイティブの人は、英語という言語の特性もあるのだろうが妙に自信満々に横柄な態度を取っているように感じることがある。その4人の会話の一番のハイライトは、オーストラリア人女性が「オーストラリアのコーヒーが世界で一番美味しい」と言っていて、それを聞いたイタリア人夫婦は否定も同意もせず、口をつむんで首を右左に動かしていた。それがぼくにはとても面白く、なんだか映画のようであった。歴史の価値と文化とは何かを考えさせられる。
フィレンツェに到着。久しぶりに戻ると大都会に感じた。夜は、Della Pergolaでイザベラ・ロッセリーニの演劇『Darwin’s Smile』を鑑賞。劇自体はイタリア語だったこともあり、理解ができなかったが、そこに集う人々の態度や夜の楽しみ方、そこに長く変わらずにあるものなどを目の当たりにし、大いなる刺激を受けた。