2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.13

Translate

2024.1.13

朝10時Bologna CentraleからBiscottificio Antonio Matteiの本店のある街、プラトへ。
19世紀のリソルジメント以降、繊維で栄えたというこの街は、多くの移民を受け入れ、特に80年代以降は中国人の移民がとても多く、彼らが労働者として繊維業を支えているらしい。そのほとんどが「Made in Italy」を謳う繊維産業に従事しており、Made in Italyの闇は実はこんなところにも実際には存在している。例えば、世界的パスタブランドBarilla、そのパスタの生産地はイタリアと記載があるが、実際はイタリアで製粉しているだけで、セモリナ粉はアメリカやロシアなどで生産されているのだそう。国によって生産国の記載の規制が曖昧なのか、そのようなねじれが生じている。「Made in Italy」のブランディングが世界的に成功していると思うが、その負担は日の当たらないエリアに大きな闇を抱えることになっているのではないだろうか。
プラトのドゥオモの広場にあるカフェのテラスで一服。電車に乗り、フィレンツェに到着。明日からは1500年に建てられたルネッサンス建築のホテルに泊まる予定なので、今夜は安宿に泊まる。振り幅があるのがぼくは好きだ。野宿をした後に、最高のサービスを受ける。どっちつかずと言われることもあるが、ぼくはどちらかに寄らずに両方を一緒に歩くという選択をしていきたいと思う。それがカオスの理論だ。
フィレンツェについて、街を散策していると、なんだかあまり気分が乗らない。観光客ばかりの風景に嫌気を刺してしまっているのか、もしくは観光客を相手とするお店の雰囲気か、ぼくたちも他にもれず美しいまでに観光客なのに、なんで気分が乗らないのか。観光客が大顔で歩いているからか、そこにお邪魔しているという感覚がないからなのか、このような観光都市では、観光客たちがその街の生活者たちに対して「お邪魔します」という気持ちで訪れていないように感じてしまう。歩いたエリアが良くなかったのか、そもそもこの街には生活者がどのくらいいるのかと疑問が頭に浮かび上がるほどに、観光客に媚びるような街だなと思ってしまった。歩きながら考えていたが、アムステルダムにいた頃も同様にそんな風に街の風景ができていて、気分があまり乗らなかったのである。安宿がまた観光客を相手としたものだからさらに気分を害したのだろうか。安いんだから仕方ないでしょ、と人は言うだろう。ぼくは、「安宿だから期待してはいけない」という概念がつまらないなと思う。お金のために仕事をしている人たちの仕事を見るとかなり心が辛い、自分を含めて多くの人たちがお金のために仕事をしているので、その言い方が正しいかわからないが「安いから良くない」「お金を払えば良いサービスを受けられる」というのは本当だろうか。ぼくは全く同意できない。今日泊まる安宿には、用意された水がなく、水道水を飲んでください、ハンガーは2本しかありません。シャンプーや石鹸もありません。wifi繋がりが良くないです。受付には人は常にいません。チェックインとチェックアウトの時間を教えてください。チェックアウトが10時より早い場合は、鍵を部屋の中に置いて帰ってください。Wifiの速度は若干お金と関係してくるので、あまり文句を言うこともないが、「もてなし」とはなんだろうか。心地よさはお金をかけずに人の仕事への向き合い方で変化させられるとぼくは思ってしまう。バカといるとバカがうつるという諺があるが、観光客といると観光客がうつる、そうやって宿や店も変化していく、宿や店が変化するということは街が変化するということだ。宿や店、民家は街を形成しているのだから。
ちなみに、旅行をしていると、いつからなのか観光税がかかる。最近、旅行をしていなかったからかいつからなのかよくわからない。宿泊した場合にかかる観光税には納得するが、その在り方が、「観光税=お邪魔します税」だとしたら、観光客の態度を大きくしている一因になってしまっていないだろうかと危険も感じる。「金を払えばいいんだろ」「有名だからいいだろ」という態度が、この世の中を覆ってしまいそうだ。最近、ここのところ行列ができている京都の老舗蕎麦屋に常連でもないのに入った社長がいるという話を聞いた。敬愛する社長ではあるが、はっきり言って幻滅したし、話の真偽はわからないが、ぼくはその蕎麦屋の態度も嫌になったし、社長の態度にもうんざりした。そんな話を聞くと、ぼくはいつだって市井の立場で幸せだと思うし、同時にピュアでできるだけ強く毅然とした態度でいたいと思う。フィレンツェ郊外にある地元からも大変人気のある小さなオールドファッションな店にあるアメリカのミュージシャンが来店した。満席の店内に入り、会計を終え、ちょうど席をたったお客さんが座っていた席に予約もなしに座ろうとしたら、「今日は予約でいっぱいだ」、付人は「彼は、有名な〇〇だぞ」と言ったが、追い返されたという話がある。ぼくはその手の話が大好きだ。何を大事にしているかが明確だし、大袈裟すぎるかもしれないが、その態度に店主の社会における自分の価値の証明と、世の中を守るだけの毅然とした態度を感じる。それもあって、ぼくはそのフィレンツェ郊外のレストランを予約していくことにした。
パリも観光客が多いし、京都も観光客が多いが、どちらの都市も生活者の影をはっきりと映している。この街には、まだそれがあまり見えない。この街の六曜社を探すために明日はみんなが動き出す前から歩くべきだろう。もちろん、まだ1日も過ごしていないので、何も言うべきではない。それでも、言いたくなることを書いておくこと、翌日になってまた違う感覚を芽生えて、思考の層を実際に感じることは大事だと思っているから、書き記す。ここで散々書いた観光客は決して外国人観光客だけのことを指しているわけではない。ちなみに、安宿のレセプションでは、金髪の厚塗りの50代の女性がyoutubeでアリアナ・グランデのライブ映像のようなものをみていた。値段が安いから、自分の仕事をサボるというのはぼくの中では納得がいかない。相手に合わせて態度を変えるのが好きではないのだ。