2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.8

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2024.1.8

朝から、ステラの病院へ行く。ケンネルコフのワクチンを未接種ということで、明日から受け入れてもらう予定のアイントホーヴェンにあるボーディングスクールでは受け入れられないと言われ、急いで接種。オランダに来て初めての動物病院訪問だったが、日本の動物病院よりも、人間の病院に近く好印象を受ける。犬と暮らしていると、犬が突然賢くなる瞬間があるが、今日の動物病院での待合室はそんな瞬間を感じる場所であった。ぼくが知らない人に気を遣って話していたりすると、その気を感じてか、ものすごく大人しくなる。先生も清潔感があり、さっぱりしているし、ステラを触るのもとてもソフトである。フロントデスクの女性たちもとても親切だし、犬だけではなく、ぼくの状況も理解しており、配慮も心地よい。
こうやって、状況を話したり、ステラの健康状態を英語で説明できるのはこの国に住むメリットだなと思った。もしここがイタリアだったら、ぼくはイタリア語でどのくらいこれが説明できるのだろうか、もしくは英語で説明してくれる先生がどのくらいいるのか、イタリア語ができないとしてもどのくらいぼくの英語を理解してくれるだろうか、そんなことが頭によぎる。そういう風に考えるとオランダは生活がしやすいかもしれない。
ステラの病院が終わり、一緒に歩いて帰ると、急ににやけるほどの達成感が湧き上がってきた。自分とは違う命を預かっていることを考える、そのほとんどを聖子ちゃんに任せていた犬のことをこうやって簡単ではあるが一人で遂行しいた事によって何故か独立して、強い精神を持つ青年になった気分であった。よく子供ができた母が他人をあまり気にしなくなり、性格がサバサバするということを聞くが、自分が守るべきものが自分自身の内部から自分自身よりも愛する他者に移るからなのだろうか。ぼくにも今日少し分かったような気がした。分かったというと世の母親たちから、「分かった気になるな」と言われそうだが、それでも今日はぼくの中に新しい感情と精神が育まれた事には間違いない。ステラは一人では病院に来ることもできない、もちろん今日病院に来た理由は人間の都合なのであるが、それでもぼくとステラが共に生活をしているということ、それを強く認識する出来事だったように思う。ぼくの母校同志社の創始者新島襄は、こんな言葉を残した。
「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」
 10年間、新島教育を受けてきたので、頭に媚びりついている。今日はそんな気分になれた。