フランソワ・トリュフォー『L'AMOUR EN FUITE』を鑑賞。
アントワーヌ・ドワネルのシリーズ前々作『Baisers volés』のようなトリュフォー自身の持っているプリミティブな感覚が少なく感じた。トリュフォー自身のというと、少しややこしい言い方になってしまうので言い換えると、作家一人一人が初期作品の中に留めておこうとする、もしくは排除したくてもまとわりついてしまっているプリミティブな決意表明のようなものが、『Baisers volés』には多く感じられた。
それがなぜなくなっているのかと考えてみたが、その作品自体が、自分の意思で作り出したものか、評価が固まってから作り出したものかの違いのようなものにも感じた。評価が決まってからだと、今回でいうところの過去の前作前々作の映像を繋ぎ合わせるなどといった慣れから生まれる実験的な要素が増えてくるのではないかと感じたし、実際に『Baisers volés』を撮ってから9年、さらにいうと、『Les Quatre Cents Coups』からは20年が経過しているのだからトリュフォー本人の変化や、社会の変化もあるから比較にはならない。ぼくも20年後にみたらまた違う感想が生まれるのだろう。別に映画批評家ではないので、はっきり言って自分の趣味を基本とした意見でしかないが、JUN IWASAKIという作家としては、初期作品、もしくは後期作品と比べたときの最初の方の作品には、そこにしか宿ることがない感覚というものが必ずあるんだなという感想を持った。
フランソワ・トリュフォーの撮ったアントワーヌ・ドワネルのシリーズを観ているとと、自分も自分の物語を語り、微力でもいいから、誰かの忘れられない、印刷が剥げ落ちるほど読み込まれるナンバーワンになりたいと思った。