2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.10.6

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2023.10.6

母と聖子ちゃんと室生近くのドッグランへ。犬が自由に動き周り、飼い主は食事ができて、お茶ができて、ケーキを食べる事ができる。中学生の頃に同級生たちと行ったひらパーのプールで遊んでいた時の感覚を思い出した。泳いで、日を浴びながら、ご飯を食べたり、日向ぼっこをしたり、で、またプールで遊ぶ。ドッグランで遊び、食事をしてコーヒーを飲んでケーキを食べて、またドッグランへ。結局2-3時間過ごしたのだろうか。ドッグカフェがぼくはかなり苦手なので、あまり犬のスペースで食事をしたくないのだが、今日はあまり違和感を覚えずに過ごせた。日をずっと浴びていたせいか、もしくはステラとエルについて走り回っていたからか、家に帰ると二人とも爆睡してしまい気付けば窓の外は真っ暗で時計の針は、6をすぎていた。起きた瞬間、「あ、寝過ぎた」と思うと同時に、実家で寝過ぎて起きたらもう外は暗くなっていて夕飯のいい香りがしているというような、いつの記憶かはわからないけれど、幸せの代名詞とでもいうような、いや幸せの代名詞ではないので、真の優しさと不安を感じない空気に包まれたような感覚があった。寝起きで血圧が上がらずふわっとしながらもものすごく幸せを感じる瞬間だった。そのまま眠気を引きずりつつ、ステラの散歩がてら近くのスーパーへ行き、お好み焼きの食材を買う。「実家で昼寝をして起きたら暗くなっていて夕飯ができている」ということに幸せを感じる感覚はぼく一人のものなのだろうか、もしくはほとんど多くの人たちが同じように感じる幸せな感覚なのだろうか。もし、ぼくが大人になって人生の価値が変わりだしたとして、その感覚はぼくの中に幸せな感覚として残り続けるのだろうか。