聖子ちゃんの母の誕生日なので、今日は奈良で一人で過ごす。朝からゆっくりとステラと散歩。家に帰ると、満足しているのかステラも穏やかにしている。昼は、高畑まで自転車で行き、みりあむでカレーを食べる。今日は、みりあむさんの娘が働いており、お店に入るとなんだかバタバタしている空気があり、耳をすましていると、娘がお客さんに水をこぼしてしまったという事だった。で、どんなふうに対処するべきだったかについて常連さんと熱心に話していた。領収書を書いたので、そこから会社の住所を調べて、手紙や菓子折りを送るべきかとか、コーヒーの代金をもらわないべきか、など。ぼく自身水をこぼされた程度ではなんとも思わないし、どの程度のあれだったかはわからないのでなんとも言えない。ぼくと入れ替わるように出て行ったスーツを着た4人組がきっと彼らだったのだろう。みりあむさんとの関係性も何も見えないので、何もいうべきではないかもしれない。が、仮に多分自分がこぼしてしまった立場だとしたら、水をこぼしたのであればさらっとクッキーなどを出す、もしコーヒーをこぼしたのなら、新しいコーヒーを用意して、コーヒー代を頂かずにクリーニング代を渡すと思う。自分が何をするかなと考えていても、どの程度だったのかと、お客さんの態度によるところも大きい。菓子折を包むのか、と感心しながら、同時に自分との感覚の違いに驚いたが、もしこぼしたのが水だったとしたら小さい問題に感じてしまった。聞いているぼくからすると小さく和やかな議論にも感じたが、当の本人たちからするととても大きな問題である。ぼくは、その時にこれを小さい問題だと思っているようでは、自分自身の感覚を疑わなくてはいけないとふと思った。ぼくの疑われるべき感覚では、大企業のクレームでも怒鳴りつけられたわけでも、人が救急車で運ばれたわけでもないと思ったが、それは悲しいことにぼくがこれまで6年間を自分の規模とはかけ離れた空間の中で時間を過ごしてきたからなのだ。
例えば、毎週一度100足のスニーカーを販売する人がいるとする。それは人気なので、毎回すぐに完売する。ある週、そのうち1足に問題があり、購入後にお渡しができなかった。購入者からすると欲しくてやっと買えた念願のスニーカーだが、販売している側からすると、1/100のスニーカーなのである。「謝れば済む、買ってもらってから気づいたのは申し訳ないが、ないものは仕方ない」と思っている。毎週100足を販売しているので、どうも1足に対する意識が麻痺してしまう。1足は、買った本人からすると大きな1足であるが、売っている側からすると1/100足で、週間で言うと1/400足である。そうなってくると小さな問題に感じてしまうこともあるだろう。ぼくが言いたいのは、これが販売している側の意識の低さだけが問題となっているのではなく、この構造を作り続けている社会の問題だということである。問題が起きた時には、買う側の気持ちを昂らせ続ける企業にも問題があり、買う側にもそれを神格化してしまっているという意思の弱さもある。販売している人間にも、企業の歯車になり、自分自身も被害者であり、当事者であり、それ以前に一人の人間であるので自分にも起きることだということを忘れるべきではないだろう。問題は見た目の規模の大きさではその深さを判断できず、かなり深いものに繋がることもある。大ごとに見えても、笑って過ごせることもある。本人が大事にしていることを、他人が小さいという権利はなく、他人が大事にしていることを小さい問題だと思っている時点でぼくは人間として疑われざるを得ないのである。ぼく自身もある種の社会の被害者であるということを今日この話に聞き耳を立てながら、考えていた。ぼく自身の作品も小さいことを大事にしているにもかかわらず、他人の小さいながらも大事にしている問題を小さい神経質に気にするべきではない問題と捉えてしまっている自分がいる。
その後、近くの方からデリバリーが入ったようで、娘がカレーを運ぼうとして、持ち上げた時に冗談を含ませるように「もう一度こぼすかもしれへん」と言った。それに対してみりあむさんが「面白くない冗談はやめましょう」とはっきりとぐさりと一言。
娘がデリバリーでいない間に、ぼそっと「実は私もお腹が大きい頃に、奈良ホテルで1日に2度も食事をこぼされた事がある」と言っていた。常連さんは「その時お腹に入っていたのは、あの娘?」
「そう」とみりあむさん。
良いお店とは、こういうお店である。物語がある。
娘がデリバリーでいない間に、ぼそっと「実は私もお腹が大きい頃に、奈良ホテルで1日に2度も食事をこぼされた事がある」と言っていた。常連さんは「その時お腹に入っていたのは、あの娘?」
「そう」とみりあむさん。
良いお店とは、こういうお店である。物語がある。