2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.10.4

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2023.10.4

奈良に来てから、ステラが散歩中にものすごく引っ張るようになったので、トレーニングをしている。今日は、100年会館を10周くらい一緒に歩く練習をした。ずっとぐるぐると周り、立ち止まり、折り返す、真っ直ぐに歩く、また引き返す、そんなことを1時間ほどずっと続ける。聖子ちゃんとコーヒーを飲む。大宮飯店に行き、ランチセットを食べる。客がひっきりなしに来る、肉体労働者が多い。ぼくはメニューを決めるのにものすごく時間がかかるのだが、今日このお店に来ていた人たちは店員がオーダーを聞きに来てからメニューに目を通し、食べるものをパッと決めていて、カッコいいなと思った。同時に、自分自身の躊躇する姿を思い出し、情けない気持ちになってしまい、注文をした直後に大きな声で「やっぱ天津飯からは逃げられないっすわ」と、話す彼らの姿をみることが出来なくなってしまった。聖子ちゃんとも話せなくなってしまった。ぼくは、彼らのように、来たものをきちんと打ち返すことができ、そしてそれがショートゴロ(あまり美味しくない)だったか、ホームラン(ものすごく美味しい)だったかにこだわりを持ちつつも、その結果に執着しすぎることもなく、時間の流れに身を任せているような姿、それに憧れているんだなと思った。彼らは1打席ずつを大切にしすぎていない。次の打席が来ることを知っている。ぼくの場合は、一度投げられたボールを見逃しし、その後、もう一度投げなおしてくださいと依頼したものの、打席に入る前にまだバットを見つめ、握り方を変え、ヘルメットを触り、自分のリズムで打席に入りバットを振る。相手の投手の球筋や癖を探る。しかし、時に自分のリズムではなく、投手や主審から勝手にプレッシャーを感じて、準備ができていないままに打席に入ることも少なくない。時に、3球三振だってありえるし、ツースリーまで粘って結局ポテポテのピッチャーゴロということもある。ぼくの結果も彼らと同様にフライだったりホームランだったりするが、それ以上に前の打者が同じ投手からヒット打てたのに、ぼくはフライだったとか、そんな比較することが出来ないことについて比較しているのである。もし、仮にぼくがホームランが打てたとしても、それがなぜ打てたのかをずっと考え、同じことが次の打席でできるのかをずっと考え、まだ見ぬ8人先にしか回ってくることのない打席での振る舞いや結果について不安に駆られて杞憂しているのである。明日が聖子ちゃんのお母さんの誕生日なので、聖子ちゃんが京都に帰った。Palmesの写真とテキストの締め切りが18時だったので、編集をし送る。夜は、ナスをグリルで焼き、ペーストにしてパスタと和えて食べる。お風呂に入りながら、なんとなくラジオを聞いているとABCのミューパラにくるりの岸田繁さんがゲストで出ていた。彼はラジオの中で、音楽の趣味が人と全然違うと言っていて、その例えに「長打を打てるバッターもいいけれど、チームプレーで打たなきゃいけないところでポテポテのいいサードゴロを打てるバッターみたいなのが好き」と言っていて、まさにそれ!とぼくは今日の大宮飯店を思い出したのである。ちょっと話を無理やりつなげているが、要は、ぼくの大宮飯店の話と岸田さんのこの話の共通点は、状況を把握しようと心がけ、目の前にあるものとこれから起きるだろうことを考察し、その中で自分の欲求ではないその場や社会にとっての最適解を行おうとする心意気なのである。ぼくはなかなか結果が出ていないだけだ。心の持ち方は非常に似ているような気がする。でも、ぼくはこの文章の最初の方で、労働者(長打を打てるバッター)の軽快な姿に憧れていると書いたけれどな。長打を打てるからと言ってチームプレーをしていないとは言ってないけれど。