朝5時20分に起床、10分で準備をして撮影に出る。自転車を漕いで高畑まで向かう、途中で帰ろうかと思うほどに寒い。これほど寒いのであればフーディが必要である。散歩している人の中には手袋やマフラーを巻いている人もいた。もうすでに街は明るくなってきていて、ぼくが見たかったような風景を見つけることはできなかったが、朝らしい光の柔らかさと、新鮮で粒の細かい空気が風景を包んでいた。9時過ぎに市役所へ行こうとするもステラといろいろしていたり、自転車の修理をしていると昼になった。ひろしの店で自転車を修理。ひがしむき商店街にあるインドカレーのお店印食店へ行くも定休日で、ならまちのグリルTALOでハンバーグを食べる。実家までサイクリング、途中市役所へ。中秋の名月を過ぎたころから一気に季節が秋に変わった。空気の色も違うし、朝夕の空気がかなり冷たい。帰りもとてもきれいな曇り空の中に淡い夕陽を見てなぜかフィジー での日々を思い出していた。ぼくは、またいつかフィジーに住みたいと思っている。あの時、終えることができなかったことの続きをしなければいけない。もちいどの商店街の中にある珈琲店 音楽と珈琲で、一服。レイモンド・チャンドラーとか村上春樹の小説に出てくるような雰囲気のお店で、空気のあるお店で心がスッキリする。ただ、些細なことでまた聖子ちゃんとまた口喧嘩になる。些細なことで口喧嘩になることを細かく突き詰めていくと自分の行動に自信がなくなっていく、自分自身の行動に疑心暗鬼になってしまい、自分の無意識が怖くなる。無意識のうちに他人に刃をむけていることもあるし、突き刺してしまっていることもある。無意識に対して意識的でありたいと思うが、同時に無意識に対して意識的であったとしても、無意識に対して意識が向きすぎて、意識しているにもかかわらず折りが合わないということがさらに怖いことでもある。例えば、聖子ちゃんとはこれまで長い時間を一緒に過ごしてきた。親以上に長い時間と感覚を共有しているにもかかわらず、ここのところ「これがこうだ、と思っているよね」ということが違ってきているようにも思う。それが決して悪いということではないし、長く生きていると感覚のズレというものは生じるし、立場や年齢とか経験によってまたさらに大きく変化する時もある。だから「これがこうだ、と思っているよね」と信頼していたことが違っていることに悲観的にならない方が良い。しかし、それを悲観的にならずに他人と聖子ちゃんをどういう風に違う人間として、聖子ちゃんが自分にとってスペシャルワンだという風に思うことができるのだろうか。彼女への、家族だけが持つことができる無償の愛と、ぼくの執着とだけが彼女をスペシャルワンにすることができるんじゃないか。いや、そして、それ以上に何より感情的にならず丁寧にガチガチになった紐を力を入れながらも冷静に紐解く行為を彼女に対してしたいかどうか、そして違いや違っていくことを受け止めその変化さえも楽しめるかどうか、そんな風に丁寧に接するということは尊敬できるかということ。他に何が違っても、むしろ何もかもが違っても、それでも彼女がスペシャルワンである理由について。サイクリングと口喧嘩もあり、家に帰って力が抜けてしまい、畳の部屋で仰向きになってそのまま倒れるように寝てしまっていた。