はっきり言って今日は全く生産性のない1日だった。朝は1時間ほどステラの散歩に行き、日記を書く、いつも通りの朝を過ごす。昼ごはんにトマトとモッツァレラのパスタを食べる。POPEYEの柳澤さんと30分ほど電話。次号が本の特集ということで相談を受ける。ここに引っ越してきて新しく契約したWifiのネットワークがあまり強くないので、契約を解除する。ヤマトでルーターを返送する。先日、実家に帰った時に持ち帰ったエルンスト・ゴンブリッジ『美術の物語』読み進める。オランダに行く前に、美術で一時代を築いたネーデルランドの歴史をきちんとおさらいしておきたいと思っている。昼寝をして、夕方写真を撮りに出ようとすると大雨になり、いけず。雨が止むのを待ちながら時間を潰すようにInstagramを見ていると、森山大道が撮った奈良というものが出てきた。実際のところ、森山大道かはわからないのだが、奈良をうまく捉えているなと感じる。それは、土門拳『古都巡礼』やアマチュア写真家たちの撮影する奈良とは全く違う印象を持つ写真だった。既存のイメージと陸続きにありながら、心をくすぐるような構図や構成。これが自分の奈良の写真だったらなと思ってしまう。実際には、これがどの写真集で、何のシリーズなのか、本当に森山大道の撮影によるものなのかを探る必要があるが、今ぼくが取り組んでいることにも親和性を感じた。ぼくは、最近Hysteric Glamorから出版されている植田正治『Small Stories』のような本を作りたいと思い毎日散歩をしながら写真を撮っている。これの装丁をしているのは白谷敏夫さんである。白谷さんは、Hystericシリーズの全ての装丁を手掛けていて、叔父の本も作っている。一度、叔父の紹介で、展覧会に来てCairo Apartmentの本をかなり褒めてくれた。この2ヶ月の奈良滞在の間に撮り溜め纏められないかと考えている。同時に2ヶ月という短期間で何が捉えられるのか、2ヶ月で1300年を超える歴史を持った奈良とどのくらい対峙できるのかとネガティブな側面や自分がする価値はあまりないのではないかとも考えている。そんなふうに奈良の全てを捉えようと思うと、今ぼくがこれをする価値など感じられないと思ってしまう部分もあるのだが、先日叔父と話している時に話になった和辻哲郎『古寺巡礼』が少しぼくの心の支えになっている。『古寺巡礼』は和辻哲郎が学生時代に奈良を歩いた旅の印象記である。学生時代の彼が古寺を巡り歩いた理由は、残された古建築や仏像絵画など美術を通じて、日本人の祖先が東西文化の交流をどう受容したかを空想するためのものであり、決して救済を求めた御仏ではなかった。そこには、若き和辻哲郎の主観的な視点や考えが強く反映されている。ぼくもこの2ヶ月は、場所は大きな歴史を持つ奈良ではあるが、歴史的側面を重く捉えず、自分のルーツを探るということを目的とし、今の自分の主観を明確に持ち写真を撮ることが許されるべきなのだと思う。和辻哲郎『古寺巡礼』は昔買って流し読みしたくらいだったので、実家に帰って読み直さないといけない。「何かを知りたい」とか「これがしたい」という感情は強く燃え上がるので、その炎が消えないように大切にしないといけない。大体の多くのことはその炎を消そうとしているように感じるのだ。消そうとするのは自分自身でもある。夜は、焼きそばを食べて就寝。インターネットがないと何となく静かである。知り合い数人から「来月奈良に遊びにいく」と連絡がきた。こうやって連絡をとってわざわざ会いにきてくれる友人がいるのはとても嬉しいし、奈良にいる責任さえも感じる。