2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.9.18

Translate

2023.9.18

朝から実家の手伝い。久しぶりに働くと、色々な気付きがある。本人にとって当たり前になっていることは、フレッシュな目を持った他人からするととても奇妙な感じがすることがある。フレッシュな目を持った他人からすると大変そうに見えることも、当の本人はそれを苦としないことや、それがルール化されているので、他人の視点からすると無駄だと思うことが当たり前に行われていたりする。例えば、実家の店には、キッチンのコンロの上に物置き台がある。その台に鍋や調理器具を置いている。油物の料理もたくさんあるので、そこは油まみれになる。もちろん、鍋らも同様に油にまみれることになる。そして、1日の最後にそれらを全て洗い直す。今日見ていただけでは、一度も使わなかった鍋が7個あった。だけれど、それを使ってないにも関わらず、洗い直すのだ。フレッシュな目で見ると、そこに置く必要はないように思えてならない。それを指摘すると、「確かにな」と言ってなんとなく納得していたが、多分変化させることはしないだろう。じゃあ、その鍋をどこに置くのか、どうするのかという提案までセットにするべきだっただろう。父親には、「もっと色々なことを指摘してくれ」と言われたが、ツッコミどころは山ほどあるとしても、この方法でお客さんが溢れるほどに来てくれているのだから、ぼくの視点でその時の判断で従来のものを変化させる必要はないのかもしれないと思う。一方で、混んでいる時お客さんが来ている時こそ何も恐れずどんどん変化させていくべきだろうとも思う。人の心地よさというものはそれぞれで、たとえ、ぼくが「この方法が心地よいんじゃない」かと言ったとしても、それは従来の方法に親しんだ本人にとっては決して心地よいとは限らない。結果的に快適になると分かっていても、その変化段階では本人とってはある種の苦痛でもある。今までやってきたやり方を変えることの大事さとそれに伴うリスクや苦労。ぼくは、これまでやってきたやり方を他人の意見を受け入れ変化させることを受け入れれる柔軟さと、その変化に伴う苦労を楽しめる人間でいたいと思う。それは会社でもよく見られる光景で、長く信念を持って働いてきた上司のやり方に対して部下がこんな風にできないんですか?と客観的に見た場合にもっともなことを言っても、その上司は受け入れられないことが多い。さっきも言ったが、ぼくは冷静にその意見を受け入れ変化に対応していける人間でありたい。自分のやってきたことへの責任とか、自信とか、頑固さとか、意地とか、信念とか、そういうものも持ち合わせながら、同時に変化を受け入れる柔軟性と、変化に対する苦悩を楽しみたいのだ。