2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.9.17

Translate

2023.9.17

朝は9時まで寝ていた。昨晩、マンチェスターU vsブライトンを観戦していたので、寝るのが遅くなった。9時に起きた時に、「寝過ぎた!」と思ったわけでもなく、「寝坊した!」と思ったわけでもなく、「あ、9時か」と思った。今はもう出勤する必要もない、予定はある日があるが、基本的に新しいシリーズを撮ること、新しい本を作ること、撮影の仕事、日常生活のやらなきゃいけないこと、家族のことがこれから2ヶ月ほどの基本的なやるべきことなので、どれもほとんどが自分のための行動なので、時間に厳しく縛られることがあまりない。そういう生活の中でポジティブな感情もネガティブな感情も持たずに「あ、9時か」と起床したのだ。
今朝、「あ、9時か」と思ったその瞬間に、聖子ちゃんがこれまで朝ゆっくり寝て目覚めても何も気にしていなかったことになんとなく納得した。ぼくはこれまで全くそれを理解できなかった。先月まで大体ぼくは6時半に起床し、ステラの散歩に行き、8時前に帰り朝食を食べて、8時15分くらいに家を出ていた。聖子ちゃんは8時ごろ目覚める。ぼくは、それによくイライラしていた。特に忙しい時期には、驚くほどイライラしていた。そのイライラは、ゆっくり寝て何もしてくれないというイライラではなく、なぜ1時間半の間に散歩と食事の準備ができるのに、聖子ちゃんはその1時間半を失っているのだろうという同士に対するイライラであった。彼女は、そのイライラの理由が分かっていなかったので、「イライラしているのか理解できない」と言ってくるのである。で、ぼくもまた「なんで理解できないのかわからない」とイライラを募らせていたのだ。ただ、その論争も今日で完全に終わったと思った。ぼくは完全に理解した。8時に起きた場合には6時半からの1時間半は存在しない。それが良い時間だったか有意義だったか、そんなことの議論の余地がないのだ、なぜならその時間は存在しないからだ。しかし、例外があることにも気付いた。仮に、9時に起きたとする。例えば、7時に起きる予定だったとすると「あー2時間も寝過ごしてしまった」と思ったり、早く起きて散歩に行ったり、コーヒーを飲みに行ったりしようと計画していたり、もしくは旅行中だったり、朝から活動する必要に駆られていた場合には、「9時に起きてしまった」と思うわけである。それは失ってしまった2時間という概念がそこに存在するので、起きた瞬間に2時間を失ったことから始まるのである。話をぼくと彼女の関係に戻り、6時半に起きて、1時間半を散歩と朝食に費やした人からすると、8時に起きた人は1時間半を無駄にしたという風に思う。しかし、6時半に起きるつもりがなく、朝一番から何か活動的にしようと思っていない人が8時に起きても1時間半、もしくは早朝の時間を無駄にしたとは考えないのである。むしろ、8時に起きた人にとっては1時間半は睡眠の時間であって、感覚的には存在しない1時間半なのだ。だから、9時に起きた場合には朝7時からの時間というものは存在せず、それは7時に起きることを目標としていた人と7時に起きた人にしか認識できない時間なのである。
こういうことを書くと、朝から活動していることを賛美しているように聞こえるかもしれないが、そういう話ではない。時間の認識の発見により、本人と他人の時間の認識の不一致によって考え方や捉え方が違うということをいいたいのだ。早朝から活動するのが好きか嫌いか、朝はゆっくり過ごして夜に活動的になる人なのかどうか、生活のリズムとか、そういうものによって起きる時間なんてバラバラなのだから、じゃあ毎日9時に起きたらいいか悪いかという論争ははっきり言って無駄だ。じゃあ、今考えると何でイライラする必要があったのかと思うが、はっきり言って考えられない。あの頃はちょっとのことでなんでもイライラしてしまっていた。
昼過ぎ、まいちゃんと洋子さんがA table!へ来る。聖子ちゃんとステラもA table!ヘ。ドッグランへ。その後、A table!へ戻り、家族で夕飯を食べて帰宅。今日は実家に泊まる。