2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.9.15

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2023.9.15

朝から、iphoneの切り替えのためにJR奈良駅前のスターバックスへ。まだうちにWifiがないので仕方ない。ぼくは、基本的にスターバックスを避けるような日々を過ごしているのだが、それでも空港にあるスターバックスが妙に好きなので、スターバックスに来ると旅行している気分になる。それにこのJR奈良駅前のスターバックスは、海外観光客がお客の95%を占めるようなお店である。特筆すべきは、英語圏ではなく、フランス語圏やイタリア語圏の方々が圧倒的に多い。毎回、ここに来るとイタリア人グループを見かけるが、彼らはエスプレッソと何かを食べてすぐにお店を出ていく。場所が変われど、さらにそれがスターバックスだったとしても変わらず彼らのスタイルがあることに、彼らが自分の人生を生きているという強い意識を感じる。はっきり言って彼らは自分の人生だとか意識していないだろうが、白いシャツに染み込んだ赤ワインのようにその生き方が染みついている。結局、iPhoneのアップデートに2時間くらいを費やしたが、一番の問題は画像の保存方法である。icloudに保存するには2TBの月額1300円のプランに入らないといけないほど、膨大な画像の容量があるのだが、実際その画像が自分にとってどのくらい大切なものかというのがあまりわからない。撮影したのは自分自身だが、何を撮ったのかもわからないものから、同じ画像を10枚も撮っているようなものまで様々で、さらにスクリーンショットやただ誰かに報告として送ろうとしたスナップ写真もあったりする。今見ても「これは何がしたかったの?」と自分自身に問いかけたくなるようなものもあれば、「ああ、これを楽しんでいた時期だったな」とかそんなふうに懐かしむにはこの写真があればいいな、という程度の写真ばかりであるが、別に見返すのは数年に一度程度のものなのである。むしろ、今日まで見返していなかったものも多い。ただ、今日見返したことによって思い出せた記憶もあり、この画像がないと他にどんな理由でこの出来事を思い出すことができたのだろう。はっきりとした強い記憶は、ある時から土の中に眠ったとしても何かがトリガーとなり、再び蘇る。例えば、ぼくのメルボルンでの聖子ちゃんとの初々しいが平凡な日々の風景も、ディルの香りを香るだけで一気に眠っている記憶によって立ち上がる。レモングラスの香りを嗅ぐだけで、ラウトカの朝の風景を思い出すことができる。もしくは、スバのマクドナルドの店長の家のベッドで起きた瞬間の感覚をはっきりと思い出すことができる。今住んでいるマンションにあるテーブルや、向かいの建物から跳ね返る音、朝の光、コーヒーの香りだとかで、メルボルンやバルセロナのair bnbの風景を思い出したりもする。そんなはっきりとした記憶たちは、ぼくの人生のエッセンスとなっていて、日々の中にあるトリガーによって、いやトリガーというと曖昧なので、香りとか空気の質感とか、色で思い出すことができる。ただ、ぼくのiphoneに入っている写真によって思い出されるような出来事は、写真をみて思い出されるべき風景なのだろうか。それらも日々の中にあるトリガー、再度具体的には香りや空気の質感とか色とかによって思い出されるべき風景なのではないだろうか。写真によって記憶に刻むというような経験はたくさんあるのだが、写真によって具体的に思い出された具体的な風景というものに心が満たされた経験が今のところないのである。人間にとって、自分の経験をどんな風に何と共に思い出すかというのはとても重要だと思っている。出来事の思い出し方としての写真を否定するわけではない。自分が作品として発表しようとしている写真が具体性を持って、撮られ纏められたことはあまりない。例えば、ぼくが「To Find The Right Chair」で示したように、ぼくの写真には写っているものから浮かび上がる別の風景というものが存在する。もし、そこに東京タワーが写っていたとしても、それは東京タワーを懐かしむものや東京タワー自体を楽しむものではなく、それによって鑑賞者の感情を掘り起こすことを一つの目的としているような写真なのである。だから、ぼくのiphoneに入っているような写真というものは、自分の思い出という観点では「こんなこともあったな、あんなこともあったな」と思うのであるが、決してその思い出し方がその人の人生のエッセンシャルなものに変容させていくものになるとは思えないのである。それなのにぼくは2TB 月額1300円をひとまず支払うことにした。具体的な写真による自分の中にある具体的な風景の立ち上がらせ方を観察するかのように。
昼、家で焼きそばを食べて、昼過ぎに京都へ行き、ヨドバシカメラでiPhoneの保護フィルムとケースを買う。気分はいい。生産性がある日だと思う。歩いて末富へ行き、お土産を買い、時間潰しに立ち寄った直珈琲でA&Sの樋口さんと隣り合う。GWを懐かしみ、直さんと樋口さんから強めのエネルギーをもらう。これまで京都に戻って以来、ふわふわしていた自分の魂みたいなものがやっと落ち着くような感覚があった。19時からYvon LambertBrunoとマイさんと赤垣屋へ。1年ぶりの再会。六曜社へ行きミルクコーヒーを飲んで、解散。ある会話がきっかけとなり、なんとなく自分の中でなぜ彼らがぼくらとこうやって遊んでくれるのか、楽しんでくれているのかを感じることとなった。やはり当たり前に「それ」が「それ」であること、「それ」が「それ」であり続けることの強度は高いなと思わされる。