ここ数日、奈良から京都に通っているが、はっきり言って奈良は結構遠い。奈良が遠いと感じるのは、ぼくや聖子ちゃんが遊びなれているのが京都だという理由であって、決して奈良が遠いわけではない。奈良に自分の心地よさのある拠点さえ見つかれば、それでどんどんと奈良で遊べるようにもなるだろう。そうなれば別に奈良から京都に毎回行かなくてもいいのだ。東京で学生時代を過ごし、横浜で遊びなれた横浜在住の人が、東京遠いなとは言わないはずである。だから、奈良は遠いと発言したくなるということは、ぼくたちが奈良にまだ馴染んでいないからだろう。距離というのは面白い、実際の距離よりも感覚的な距離を重視されるし、別に奈良が遠いという必要がないのに、奈良が遠いと感じてしまう。大仏殿からは近いけれど、六曜社からは遠いということだろう。この土地に馴染むためにも、朝からJR奈良駅前のスターバックスへ行き、wifiを使って作業をする。家にまだwifiがない。久しぶりにきちんと座って日記を書く。家の裏の八百屋で食材を買う。日記を書き、八百屋に行く、カフェでコーヒーを飲む、これはぼくがどの土地でもやってきたことで、自分の感覚を中心に戻すために好んでいることである。スターバックスには久しぶりに来た。隣に座った50代後半くらいのほぼ定年退職手前のような顔をしたサラリーマン、首から「SUMITOMO~」というストラップをぶら下げていたので、そちら関係の仕事の方々だろう、彼らは、ポケモンのポイントの話、スタバの店員がテーブルを片付けないこと、最近話題の汚職事件について話していたが、あたかも自分が正しいと言わんばかりの発言や一般的な正論を繰り返し、物事を考察しようとはしない。名簿を持っていて、何か会社の人員について話していたので、人事部なのだろう。そんなこともあってか、もしくはただ人事の仕事のせいでジャッジメンタルなのか、「テーブルを片付けないスタバは売り上げが悪い」、「スタバに入社する人は夢を持って入社するが結局現状は他の企業と変わらず~」、「まあ、実際スタバでも人員不足だろうね、片付けられなくて仕方ないか」と話し始めた。きっと全て正しいが、不快な気持ちになった。自分の意見じゃない世の中の正論を振りかざすか、拾い読みしたビジネス本から借りてきた言葉を使うか、物事を諦めるという選択肢しかそこには存在しないような、いかに会社組織が個人を破壊しているのかを見たような気がして悲しい気持ちになった。家に帰って、荷解きをし、洗濯物を回し、さらに荷解き、掃除。掃除もぼくが住んでいたどの土地でもやってきたことで、自分の感覚を中心に戻すために好んでいることである。風邪を引いたり、調子が悪いと無性に掃除したくなる。イライラしていても掃除したくなる。2週間くらい移動の日々で、楽しくも怒涛の時間を過ごしていたが、やっと少し心が落ち着くような感覚を取り戻してきた。そこにテーブルと椅子があり、自分のコップがあればなんとなくリラックスできるし、こういうものを人は自分の持ち物と呼ぶのだろう。やっぱり自分のものではないコップでお茶を飲むことはどうも落ち着かないし、多分洋服とか他のものもそうだが、自分で愛したものに再会できる喜び、そして一緒に入れることの充足感は、心を豊かに柔らかく穏やかにしてくれる。夕暮れ、聖子ちゃんとステラが京都の聖子ちゃんの実家にいるので、一人で奈良公園を散歩。撮影のリサーチとアイデアを固めるために歩く。11月中旬までの2ヶ月間で、どのくらい写真が撮れるだろうか。自分の両親が育った奈良、実家からも近い場所、狭間で育ち、距離感と名称とのギャップ、どちらからも相手にされない、オーストラリアで育った日本語の話せない日本人の顔立ちをしたオーストラリアンハーフのような土地、アイデアはある。帰り道、お寺の前に「次回の講義、高柳正裕 議題 親子の間の根源的和解」とあった。これがぼくと奈良とを繋ぐものかもしれない。