午前中、新宿のカメラ屋に行く。その後、三木と吉岡と大久保にあるネパール民族料理屋アーガンへ。吉岡には割とコンスタントに会っているが、三木にはなかなか会えてなかったので、東京を離れる前にこうやって都合が合ってよかった。そのあと、バッティングセンターに行き、解散。その後、新宿カメラ屋巡りを再会。いい出会いがあったが、結局家に帰ったのは20時。ちょっと歩きすぎた。
三木に「日記書いてるやん。聖子ちゃんとのパッキングの言い合いの話、おもろいな。わかるわ」と言われてふと思ったが、ぼくの日記ではぼく自身の視点からの描写しかないので、かなり主観的で不公平な気がした。ぼくは、公平でありたいと常に思っているので、できるだけ自分よがりにならないように書き記したり話したりしているつもりではあるが、ここでぼくの視点からみた彼女の言い分を書いたところで、理解し合えない二人の間の揉め事ついてなのだから、ぼくの描く彼女の視点はかなりズレたものとなっているのだろうなと思った。もちろん、ある人の個人的な日記に客観性があることが面白いとは全く思えないだろうし、超主観的であるが故の魅力がここにはあると思って書いている。よく起きる彼女との言い合いは、自分を守りたいわけでも、自分の価値観を彼女に押し付けたいわけでも、自分の考え方が完全に正しいと思っているわけでもない。夫婦やカップル間での、言い合いというのは、お互いが互いの主張をして、それを経てお互いの理解を深めるためのものであって、利益を求め続け拡大していくしか生き延びる道がない会社のようにそのやり方を浸透させて遂行するためのものではないと思う。家族というものは決して前や上に向かって進んでいくことが全てではない。時に立ち止まり、後ろを振り返し、ちょっと後ろに戻ってみたり、また前に進んでみようと思ったりもする。そんな主体的な動きばかりではなく、時に押し戻されることも、前に進んでいるつもりが後ろに行っていたということもある。それは社会も同じだと思う。家族や社会では失敗が許されるべきだ。大江健三郎も「家族とは失敗が許される場所であるべきだ」と書いていた。大小は様々だが、犯罪を犯しても、社会復帰する権利があり、生きる権利がある。マンU、グリーンウッドの件のように裁判で無罪でも過ちを犯したということを認めて、社会で生きていかなければならない。ぼくは、そんな豊かで多様な価値観のある知性と気配りのある世の中に憧れている。会社とは少し違う構造が、家族や社会には存在するはずだ。会社は、リプレイスメントができる。だから、失敗した人や弱者を切り捨てていく。ぼくは、家族やカップルの間には、ネガティブなことが続いても、それはそれで、そのあり様をどういう風に耐え抜くか、それを理解し、犠牲を伴いながら生きていくかを考えて実行するべきだと思う。どれだけ困難な状況でも、それが家族のあり方でもあると思う。決して別々の生活を選ぶということを否定するわけではないが、ぼくは、耐え抜くことや、こんがらがって硬い塊のようになってしまった紐を長い時間をかけてでも丁寧にほどいていく作業ができるか、そんなことをする忍耐力だとか、努力だとか、それによって生まれる相手への愛情だったり配慮だったり、尊敬だったり、頭の柔らかさだったり、そんなものに魅力を感じている。9回裏、8-5、2アウト満塁の状況で笑っていられる高校球児のようなピッチャーやバッターのようでありたい。そんなことを書いていると、こんなことを言えるのは相手に対して、それをするだけの価値があると思っているからなのかもしれないと思った。ぼくが、ここでいう価値とは、相手が持っている魅力だったり、美しく記憶に残っている一緒にした体験だったり、未来への希望だったりを言う。明日で、聖子ちゃんと付き合って12年になる。
三木に「日記書いてるやん。聖子ちゃんとのパッキングの言い合いの話、おもろいな。わかるわ」と言われてふと思ったが、ぼくの日記ではぼく自身の視点からの描写しかないので、かなり主観的で不公平な気がした。ぼくは、公平でありたいと常に思っているので、できるだけ自分よがりにならないように書き記したり話したりしているつもりではあるが、ここでぼくの視点からみた彼女の言い分を書いたところで、理解し合えない二人の間の揉め事ついてなのだから、ぼくの描く彼女の視点はかなりズレたものとなっているのだろうなと思った。もちろん、ある人の個人的な日記に客観性があることが面白いとは全く思えないだろうし、超主観的であるが故の魅力がここにはあると思って書いている。よく起きる彼女との言い合いは、自分を守りたいわけでも、自分の価値観を彼女に押し付けたいわけでも、自分の考え方が完全に正しいと思っているわけでもない。夫婦やカップル間での、言い合いというのは、お互いが互いの主張をして、それを経てお互いの理解を深めるためのものであって、利益を求め続け拡大していくしか生き延びる道がない会社のようにそのやり方を浸透させて遂行するためのものではないと思う。家族というものは決して前や上に向かって進んでいくことが全てではない。時に立ち止まり、後ろを振り返し、ちょっと後ろに戻ってみたり、また前に進んでみようと思ったりもする。そんな主体的な動きばかりではなく、時に押し戻されることも、前に進んでいるつもりが後ろに行っていたということもある。それは社会も同じだと思う。家族や社会では失敗が許されるべきだ。大江健三郎も「家族とは失敗が許される場所であるべきだ」と書いていた。大小は様々だが、犯罪を犯しても、社会復帰する権利があり、生きる権利がある。マンU、グリーンウッドの件のように裁判で無罪でも過ちを犯したということを認めて、社会で生きていかなければならない。ぼくは、そんな豊かで多様な価値観のある知性と気配りのある世の中に憧れている。会社とは少し違う構造が、家族や社会には存在するはずだ。会社は、リプレイスメントができる。だから、失敗した人や弱者を切り捨てていく。ぼくは、家族やカップルの間には、ネガティブなことが続いても、それはそれで、そのあり様をどういう風に耐え抜くか、それを理解し、犠牲を伴いながら生きていくかを考えて実行するべきだと思う。どれだけ困難な状況でも、それが家族のあり方でもあると思う。決して別々の生活を選ぶということを否定するわけではないが、ぼくは、耐え抜くことや、こんがらがって硬い塊のようになってしまった紐を長い時間をかけてでも丁寧にほどいていく作業ができるか、そんなことをする忍耐力だとか、努力だとか、それによって生まれる相手への愛情だったり配慮だったり、尊敬だったり、頭の柔らかさだったり、そんなものに魅力を感じている。9回裏、8-5、2アウト満塁の状況で笑っていられる高校球児のようなピッチャーやバッターのようでありたい。そんなことを書いていると、こんなことを言えるのは相手に対して、それをするだけの価値があると思っているからなのかもしれないと思った。ぼくが、ここでいう価値とは、相手が持っている魅力だったり、美しく記憶に残っている一緒にした体験だったり、未来への希望だったりを言う。明日で、聖子ちゃんと付き合って12年になる。