7時10分に起床し、顔を洗ってパジャマを着替えて、Stellaと散歩に行く。8月21日以降、面白いことにアラームをせずとも7時10分ぴったりに目が覚める。今日もまた7時10分ちょうどだった。朝の散歩には遅いが、アラームをせずに心地よく目覚めているので、特に嫌な感じはない。これまでは、6時に起きて、Stellaの散歩に行っていたのだが、ここのところ朝の散歩の時間がずれ込んでいる。8月も最終週になって、日差しは先週のような差し込むようなものから比べると少しばかりは柔らかくなってきたように感じるが、まだまだStellaにとっては少し暑いかもしれない。近くの公園で、朝の時間に頻繁に会う犬の散歩友達のおばさんと立ち話。東京を離れる日程が正式に決まったという話をしていると、「ヨーロッパは犬にとってはいいわね、ドイツもすごく快適だったわよ」と。今まで一度も教えてくれなかったが、昔ドイツに住んでいたそうだ。田園調布に住む人たちは、着飾らず、文化的教養があり、様々なことに対してオープンで、経験豊富な方が多い。大ふろしきを広げてドヤと鼻くそをほじりながら自慢げにいるような人や、一張羅を着てブリュバードのど真ん中を大股びらきで闊歩するような人はかなり少なく、鋭い爪を隠す鷹といった感じに、一見そんな風には見せず、会話の中でサラッと品よく、話のネタの一つとして話している方が多い。例えば、犬の散歩で会って、「最近少し忙しくて、実は出版社をやっていて、今ブックローンチの展覧会をしていて」「そうなんですか、どんな作品なんですか?」「作品は、写真で〜…作品はこんなふうに作っているんです… 紙は〜で…」などと話しても、「その作品の紙は、水彩画用の紙じゃないの?」などと返答してくれる。「すごいわね」とか簡単な言葉での返事ではなく、きちんと会話を続けようとしてくれる。「すごい」とか「面白い」と言われても、そこで会話が発展しないことが個人的にはつまらないと思うし、もし知らない場合でも知らないなりに正直に「ぼくはそれ全然わかんないです、教えてください」と言えるようになりたいとぼく自身は思うし、それがまた人間的な会話だと思う。「すごい」とか「面白い」と言われても、英語で話しているときに「That’s interesting」とか「Very unique」とか言われると、興味がないんだろうなといういう印象を受けるし、日本語でもその感覚は同じだと思う。自分も興味ない時は、「へーすごいね」と言っているように思うし、一方で残念ながらそれが口癖になっている部分もある。口癖は環境から影響を受けて身についていくものなので、周りがそういう風な会話の方法をしていると、それが口癖になるし、面白くない会話で満ち溢れた環境で育つと、返答もどんどんとつまらないものになってしまう。鋭い爪を隠す鷹のような人は、ドヤ顔で鼻くそをほじる自慢げな人たちのように公共の場では鼻くそをほじらないので、それをいつどこで処理しているのだろうかという疑問がこの文章を書いているとふと思い浮かんだ。が、そんなことを考えても決して面白い答えが見つかりそうもないし、ここで書きたいことでもなさそうなだという未来が見えたので、田園調布のネイバーたちの話をまとめると「文化的教養があり、作品に使う紙を知っていることが知性というわけではなく、知性があるから会話ができる」ということか。必要なのは、知識ではない、知性である。この会話のケースだと、紙を知っていること以上に、会話の方法を知っていることが大切だということだろう。
夜、渡邉さんとAldoさんがうちに来て、ディナー。ゴーヤチップス、ポテトサラダ、サーディンのローストにイカをトマトソースで煮込んだソースを乗せる。それからコーンを混ぜ込んだクスクス。渡邉さんが、エンジェルナンバーの話をしていた。エンジェルナンバーとは、自分が作り出した世界に対して何かを現すような、自分の潜在意識にあるメッセージが番号となり、現実世界に現れる番号を呼ぶそうで、よく目にする番号だとか、妙に気になる番号だとか、そういうものを指すらしい。渡邉さんの場合、2222というのが彼の今よく目にする番号だそうで、「あなたの信じる心と勇気が、すべての道を切り開きます。勇気を出して、忍耐力と信念を持ち続けてください」という意味を持つのだという。また、みんなでヨーロッパでの再会を誓って別れた。引越しまであと2週間を切っている。ベッドや棚がなくなるとますますすっからかんな家になるのだろう。それが29日。