2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2023.8.24

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2023.8.24

朝からステラの散歩ついでに都立大学のToshi Au Coeur Du Painへ。朝7時からやっているので家から近ければ、毎朝買いに行ってもいいと思うほどぼくはここのバゲットが好きだ。家から歩くと片道45分くらいかかる。それに加え、昔はバゲットが180円だったが、今は280円になっている。バゲットとクロワッサンを買う。クロワッサンは疑惑だったか、その疑惑は解けて、バゲットと並び食べられるべきパンという役割を持つようになった。
9時半からデスクに向かって日記を書いて、来ていたメールの返事をする。引っ越しに向けたパッキングを進める。どんどん箱を閉じている。こんなタイミングで、体重計が壊れてしまった。箱の重さを測れないのでかなり困ったが、もうすでに詰め終えた25kgの箱があるので、それと持ち比べながら原始的に重さを測る。感覚を研ぎ澄ますことで重さを測る。今日も、昼にそうめんを食べる。茗荷を細かく刻み、生姜をすりおろす。残っていた茄子と万願寺とうがらしの揚げ浸し。
ふと鏡を見るたびに、自分の髪型が気に食わないので、ちょっと家を出る時も日差しがキツいことを理由に帽子を被らされた少年のようにずっと帽子をかぶっている。なぜ東京に来てからなかなか自分の好みの髪型にならないのかと聖子ちゃんと話していると、まずは「自分の趣味や意思を美容師に明確に伝えないこと」、それから「髪を切ってくださった方々が優しく人に対する感度が高いので、ぼくを理解しようとして髪を切ってくれていること」ではないかという話になった。
ぼく自身の優柔不安なナヨナヨした性格から、美容師にはぼく自身が優しさやソフトな印象を与えているようである。髪を切ってくださる方々は、それほどぼくを深く知っているわけではなく、その対峙した時の生真面目な服装、舌足らずな口調、覇気のない笑顔など全体的な印象でぼくを判断する。多分、その瞬間感じる性格に似合った髪型になっているが、本来のぼくは決してそういうものを嗜好している人間ではないと自分では思っている。それは聖子ちゃんも同様に思っている。性格はナヨナヨしているが、勢いのあるプリミティヴなものを好んでいる。何よりイキっているものが比較的好きだ。そして、そのソフトな印象から出来上がった髪型を毎日鏡の前で見つめ、その日々の自分との鏡面でのエンカウンターが、またぼくの性格をソフトにしていく。それが無限にループし継続していくような感覚もある。坊主後の4,5年間ほどはずっとそれに悩まされている。では、それを打破するものは何か、自分の思い切りのよさと明確に自己を伝える能力を上げることではないか。打破することができるのは、自分自身飲みであり、美容師を変えても、美容院を変えても、聖子ちゃんに切ってもらっても、それが変わるわけではない。髪型が悪いのは人のせいではない、自分の思い切りのなさと明快さ不足である。
夜は、以前仕事をご一緒したKontakt Pressの安齋さんと、スタイリストの吉田さんと食事の約束をしていて、目白のTre Gattiを予約していたが、シェフが病欠されるということで、予約がキャンセルになる。中目黒のシチリア料理BANDERUOLAへ。吉田さんは北野白梅町とか金閣寺の近く出身らしい、驚いた。まだ20代のお二人だが、若い頃から自分の好きなことを明確に持ち仕事をしている二人を見ていると、ぼくと彼女が過ごした海外でのとても貧乏な20代のちゃらんぽらんな生活の経験や、その時に受け取ってきたものは、ぼくたちの心の支えやいつまでも消えない炎の一つだなと思ったし、ぼくらにはぼくらにしかできない仕事をする責務があるなと改めて考えたし、ぼくたちと違う経験をしている二人と話していると鋭く心に刺さってきた。
言語や知識ではなく、肌でしか感じ取ることができない知性や、それらをきちんと感じ取ることができる肌作りをぼくは大切にしてきたし、それを今後も大切にすることがぼくの人生のテーマなのかもしれない。人と話していると、知識で武装してきた10代を経て、知識武装が通用しないフィジーやバイロンベイを経たことで、感受性の良い肌を作ることを心のどこかで継続したいという意思があることは間違いないなと思わされる。そして、それに「第一ラウンドが圧倒的優勢だったファイターがそれにに縋り付いて、第二第三ラウンドで守りの姿勢に入り、結果判定負け」そんな生き方をしたくはないと常々思っている。