2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.9.9

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2022.9.9

まだ喧嘩は続く。餃子を作ってくれていたようなのであるが、仕事が終わらず帰りが遅くなり、また喧嘩になる。仕方ないでは済まないことも多い。家に帰って、インゲンとグリーンピースのパスタを作り、食べる。パスタを食べたのはいつぶりだろうか。
昨日、家の近くのインド料理屋で、「静岡でバス園児がバスに取り残されて亡くなった」とテレビからニュースが流れていた。園児の通っていた幼稚園の園長と副園長が会見を開き頭を下げている。園長は、とてもきれいな白髪のなかなか高齢男性である。理事長も務めているという。当日にドライバーを務めたのも園長らしく、ニュースは彼ら幼稚園側の問題を指摘し、さらに世論は記者会見での彼らの感情のなさにも怒り心頭しているのだという。業務上過失致死容疑事件として調査されている。昨年7月にも福岡で同様の事故が起き、5歳の園児が亡くなっている。その反省や教訓は同じ業界には生かされなかったのか。
自分の娘や生徒、自分の大切な友達が亡くなることの悲しみは深くぼくには想像を絶する。二度とあってはいけない。
そのままニュースを見ていると、ある有識者らしき男性が、置き去り防止センサーの導入について話していた。ぼくはそこに大きな違和感を感じた。それだけで済む問題では無いのは明らかである。
この発言を聞いていると、ぼくたちは「デジタルが正しい、システムやルール、制度が正しいとなぜ思えるのだろうか」といつもの問いが頭の中を充満してしまった。この幼稚園は、登園確認をするシステムを導入し、一人一人がきちんと登園しているかを確認できるようにしていたのだという。しかし、実際のところは、一括での入力になり本来の姿とは明らかに違う形だけが残っている。システムのために仕事をしているように見えるし、システムを効率よくしようとした結果、自分たちは園児のためではなく、システムのために仕事をしているのだ。
同じく、幼稚園の人員不足もそうだし、仕事の環境作りもそうだ、そこに怠惰はないのか。もしくは、環境が作れないだけのサポートができない政府には問題はないだろうか、この園児の死に対して頭を下げている園長と副園長以上に社会体制が問題なのではとも思えてくる。もちろん、彼らは決して全面擁護されるべきではない大きな過ちを起こしてしまった。人の命はもう二度と戻ってこないのだ。ただ、これは彼らだけの過失ではない、社会全体の大きな問題なのであるというような意識をぼくたちは持てるだろうか。傍観者になり、野次馬になり、他人に怒号を飛ばすだけの人間には決してならない。自分のこと、自分の生きている社会のこととして受け止めることはできないか。