2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.9.16

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2022.9.16

朝、Stellaとランニングに行き、聖子ちゃんとゆっくりと朝食を食べる。久しぶりにゆっくりと朝を過ごすことができた。
しかし、その幸せな朝が嘘のような夜がやってきたことをここに書いておくべきだろう。
仕事から帰ると、娘の待つ家に帰るおじいちゃんのように、忍足で足音を立てないように玄関の階段を登り、しずかに扉を開ける。手には、お土産がある。が、部屋の中は薄暗く、何の気配もしない。せっかくこんなに忍び足で登ってきたのに、と「つまらないな、いつもみたいに逆に思いっきりStellaを驚かしてやりたかったな、あの驚いた顔を見たかったな」と思う。が、聖子ちゃんとStellaは散歩中だろうと背負っていたカバンを玄関の足元に置き、ヤクルトスワローズのキャップを脱ぎ、クローゼットにひっかけ、時計を外し靴箱の上段に置き、手を洗う。この一連の行為は、万年首位打者を争うあるバッターの打席に入る仕草のように2020年からのぼくの決まりごととなっている。今日はなんだかさっきまで誰かがいただろう気配すらをも感じないなと不思議に思いながら、手を洗う。リビングに行くと、写真と置き手紙があり、そこには「少し旅に出ます。Stellaはケンケンに預けました。日曜日の19時には迎えに行って欲しいです。また、月曜日のお昼一緒に食事しよう。I love you so much」と書かれていた。写真に映るのは誕生日に撮った花束を持った彼女の姿である。
なんだか、大きなストッパーが一気に外れたかのように、実体という重圧がぼくの身体と心に容赦なく流れ込んできて、いつしかそこにあったものを全て飲み込んでしまい、ぼくは突然涙を流してしまった。今日は話したいことがたくさんあった。しかし、もう話すことができない。もうそこにはぼくの話をイヤイヤでも聞いてくれる、そしてぼくが話したいと思わせてくれる彼女はいない。これがいつまでだろうか、本当に手紙に書かれていたように旅に出たのだろうか、月曜日には帰ってきて一緒にランチを食べれるのだろうか、そして旅に出るとはどういうことなのだろうか、写真にうつったお花を抱えた彼女の姿の意味は、色々と必要のない思考がぼくの脳内に充満していく。
突然、彼女はどこへとも言わずにどこかへ行ってしまった。村上春樹の小説的な表現だと、消えたのである。彼女の生活に不審に思うことは全くないので、単純に数日前まで続いていたケンカによって彼女も疲弊してしまったのだろう。
ぼくは動揺してしまっているようで、とりあえず家を出て街を徘徊する。駅前のスーパーマーケットで明日の朝に食べるようにと、ケフィアのヨーグルトを買い、それからアメリカ産のグレープとチョコレートでコーティングされたバニラアイスを買う。近くの八百屋には、山形でとれるとても美味しいグレープが売っているのだが、なぜかこのスーパーでなんでもない美味しそうでもないアメリカ産の農薬がたっぷりとかかったグレープを買ってしまった。冷蔵庫にもその山形の美味しいグレープが半房ほど残っているのにも関わらず。それに、アイスクリームなんてもうほとんど食べていなかったのに、気付けば手に取っていて、スーパーマーケットを出るや否が、袋を開けガブリとかぶりついた。相当に動揺してしまっているようである。動揺すると、寂しくなると、ぼくは異常なまでに自分の日々の生活と大きく外れたことをしてしまうほど、思考ができなくなるのである。
家に戻り、お風呂に浸かり、お茶を淹れ冷静になろうとするも、どこか自分自身の行為がそこにしかあり得ないのに、なぜかそこにはないような感覚を感じる。
冷静になったつもりでお茶も淹れたはいいものの、なぜが飲みたかった玄米茶ではなく生姜のくず湯を淹れていて、そしてもうこの頃は全く使わなくなったマグカップにお湯を注いでいた。急いで急須に移す。横には、グレープを洗って皿に持ってみたはいいものの、生姜湯にグレープ。それも全然美味しくない、味のない皮ごと食べられるというアメリカ産のグレープ。このグレープが美味しくないと言われる残酷さと、買ったことによる罪、そして売っているスーパーに罪、そもそもこのアメリカ産のグレープ自体には罪はないのだろうか。
マイク・リー監督『秘密と嘘』を鑑賞、と言いたいところだが、実際にはそれは暗闇のベッドルームでついていただけで、
マイク・リー監督『秘密と嘘』は、うつ伏せになって上半身を起こしながら湯呑みを持っているぼーっと画面を眺めているだけのぼくに奇妙なモニター越しに光を当てているだけだったのである。マイク・リー監督には罪はないだろうか、映画を選んで流していただけのぼくには罪はあるのだろうか。