2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.9.14

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2022.9.14

ゴダールが死んだらしい。ウィリアムクラインも亡くなった。
Instagramにいろんな人たちが想い想いに写真を投稿しているが、なぜみんな写真を投稿するのか、なぜみんな人の死を共有するのか。そんな人の行動を見ていると、少しげんなりするような気分になる。
それらの行為は死者を利用してはいないか、自己ブランディングとして利用していないか。
そもそも、人の死に立って写真を投稿すること以前に、日々不特定多数に対して投稿されるイメージは、何のためなのだろうか。自己ブランディングか、現代社会で生きるための一つのテクニックか。そんなことを考えていると、写真は共有のためのものでしかないのかと感じさせられ、写真集を出している身としては少し歯痒い。
しかし、一方で、自分自身にも、写真を投稿しようという気分にもなる。死という機会を以って、何か埋まらない穴を埋めるかのように共有する気持ちになるのはすごくわかるのだが、なんだかしっくりこない部分もある。同じ想いを持った友人たちと弔いの気持ちをもち、一つの時代の終焉を見守るかのように。
また、そして繰り返す。パブリックなところで、それらをすることはパフォーマンスではないか、自分のイメージを作るために死者を利用してはいないか、死者は何も語らず。
そして、夜、自分も一枚の写真を投稿する。自分にとって偉大だった、作品や言葉から存在を知っている、気になっていた、実存するのかすらわからないまま死んでいった巨人に対して。ぼくは、彼と17歳の時に実家のカフェで彼に出会った。それは、あるお客さんと母親の会話の中に彼は出てきた、自己を形成するのに非常に大きな影響を与えてくれた巨人に対して。埋まらない穴を埋めるかのように、同じ想いを持つものとそれらを弔うように、粛々と。同じ想いをもつ人が理解できるレベルで、大袈裟にわかりやすくではなく、ただしはっきりと。