2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.9.13

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2022.9.13

朝起きるとなんて時間の無駄をしているんだろうかと雷に打たれたように強く感じてしまう。
1年後に海外移住と考えているけれど、なんで1年間を待つ必要があるのか。それは待ちなのか、今すぐにはいけないのか、その一年の長さはなんだろうか。時間を無駄にするほど、人生は長くない。タイミングだって失ってばかりいる場合じゃない。ぼくにはやりたいことがあり、彼女にだってそうだ。ぼくらにはこうありたいというビジョンがある。そうやって遠回りしながらでも曲がりなりに何とか歩みを進めてきた。なのに、今なぜか自分の全ての行動が何かを待っているようではないか、何かことが起きればそれに合わせて動くような、人からの手助けや、神からの示しを待っているかのような日常ではないか、ぼくたちは喧嘩なんてしている場合ではない、ビジョンに向かってしたいこともやりたいこともすべきことも今すぐにしないといけないこともたくさんあるのではないか。何かぼくたちは毒されていないか、自分のするべきことを見失っているのではないか。
夕方、働いているビルの屋上で大江健三郎『日常生活の冒険』を読み進める。斎木犀吉の環境に合わせた人間の変化がなんだか妙に今の自分を物語るようでまたそれもこのストーリーにぐいぐいと吸い込まれていく要因だろう。
「彼は苛立っていたが何も言わなかった。彼は、もう粗暴なふるまいをする男ではなくなっていた。おかしなハイ・ソサエティ趣味がここに生活して以来の彼を毒したというか洗練したというか、ともかくぼくは殴り合いの喧嘩など決してやらないタイプに変わっていたわけだ。さらに結婚を境に、あの瞑想的な弁舌の習慣も失っていた。彼の新しい友人たちは皆彼のことを無口な人間だと思い込む始末だった。」
夜は、味噌汁とご飯と大根おろしと納豆。食後に虎屋の羊羹。ベランダで本を読んでいてもすごく気持ちいい季節になった。夏のように朝一番から虫が鳴いているわけでもないし、夜もとても静かである。向かいにあるテニスコートからボールがラリーされるポン、ポンというリズムが心地よい。Stellaとゴロゴロしていたら寝てしまった。斎木犀吉の行動と自分の行動、心境の変化に類似性を感じさせる部分があり、もっともっと活動的でリズムの良い、風のような存在になりたいはずではないのか。今や尻に根が生え、その周りには苔までが生え始めている。もしくは、おばあちゃんの家の家具のような存在になってはいないか。高架下で酒を飲みながら文句を言っているだけの人間になっていないか。
ウィリアムクラインが死んだらしい。