2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.9.12

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2022.9.12

聖子ちゃんの夢を見て起きる。なんだか妙に寂しくなってしまい、横で寝ている聖子ちゃんに抱きつきに行き、起こすも眠らせてと言わんばかりで、目を覚さない。仕方がないので、いつも通りStellaとランニングへ出る。
夜、仕事から帰ると聖子ちゃんはいなかった。
家の玄関の階段を登ると大体Stellaが鳴き出すのだが、今日もいつも通り鳴き出した。いつもStellaが一匹で留守番しているときはStellaは何かを求めるように、自分の存在を確認するかのように鳴いている。一匹でお留守番をしているときは、家のあるブロックの曲がり角を曲がったくらいから鳴き声が聞こえるほどである。
今日は、鳴いていなかったが、玄関の階段を登る鈍い足音で気付いたように鳴き出し、玄関の扉を開けると、驚くような表情でこちらを見ながら、その直後から遠吠えのように大きく鳴き始めた。聖子ちゃんはいないのだが、Stellaが一匹でお留守番をしていたのだ。
夕飯を簡単に済まし、Stellaの散歩へ行く。今日は、なんだか思考が作品制作のモードに入っているので、どうしても作業をしたいと思っていた。毎日このように家に帰って、すんなりと作業ができるのであれば仕事とクリエイションの両立は全く困難では無いだろうが、大体において、一服をしていると、そのままリラックスして映画を観る、お風呂に浸かるという流れになってしまう。
結局、聖子ちゃんは、ぼくが寝るまでには帰ってこず。一緒に海外へ再度引っ越し人生の冒険をともにするとか、自分たちのプロジェクトを進んで行うとか、新しい家族を迎えるとか、お互いの家族のこと、ルーツのこと、出会ってきたこれまでの土地や人を想うとか、そんなことを大事にしたいと思って生きているはずなのに、そんなことすら考えられないくらいに絶望的な気分である。何かが絶対的に変化してしまったという感覚さえある、それはぼくからすると彼女の中の何かがであり、彼女からするとぼくの何かがであるだろうし、お互いにとってはぼくたち私たちの何か絶対的だったものが、であるように思える。絶対的なものなど存在しない、ぼくはいつもそう思っている。「絶対」という言葉を使わないことを意識しているし、もし仮に絶対的なものがあるのだとすればそれは変化し、希望を持って未来へ進むこと、自己を否定すること、それらをし続けることによってしか生まれてこないのでは無いのでは無いかと思っている。昨日の人間関係は今日においては昨日あったほど強力ではなく、一方で昨日あった恐怖を覚えるほどの深い溝は今日においては何も意味をなさないことだってある。そんな曖昧な関係の中で人間同士は互いに愛し合い生きているのである。強力なものは、左手の薬指についた指輪でもなければ、毎日のハグやキスでも「愛してるよ」という愛の言葉ですらない。本当に強力なものとは、自分自身が相手のためを想う心であり、求心するふるまいなのではないだろうか。自分への戒めや今のこのどうしようもない、行き場のない感情をここに記す以外に自分のこの感情を慰め、抑え、そして未来へ向かって進む方法がないのかもしれない。思考し、瞑想的にここに書き記す、それによって自らの思考と身体を奮い立たせて、そして第1ラウンドの圧倒的優勢の栄光を捨て、常にそのラウンド、その瞬間にあるものと対峙していくしかないのである。
大江健三郎の本を読んでいると、絶望的な環境など存在しないのではないだろうかと思えてならない。もしくは、人というのは常に最も簡単に絶望的な状態へ陥ることができ(陥ってしまい)そこから立ち直る、カムバックすることで未来へ歩みを進めている生き物なのかもしれないと思わされるのである。放棄せず、その環境や状況を変革するかが人間の仕事であり、どんな風にしてそれを変革するのかが人間のセンスなのである。勇気の出る小説。