2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.8.1

Translate

2022.8.1

今年の7月は子供のころキャンプ場で見た流れ星のようにあっという間に過ぎ去った。
お昼にDev HynesがInstagramでライブを配信していたので聴いていたのだが、なんだか自分の過去とこれまでの行動を振り返るような時間となり、今の自分の狭苦しさとか、自己表現力の欠如とか、特異性の欠如とか、自分への信頼とか自信とかそういうものが明らかにその場で足踏みをしているように感じてしまう。同時代を生きるアーティストで、自分の20代後半の人生と並行している(いた)ようなアーティストだなといつも思う。友人ではないのに、妙な信頼感を感じるのだ。
屋上の芝生で、イヤホンをして、本と水筒を横に置き、シャツを脱ぎ捨て、トートバッグからお弁当出し食べていると、この行為、この感覚、19歳の時と何にも変わっていないなと思った。ショーツを履いて、ティシャツで、お弁当を食べている。イヤホンからは好きなアーティストのポップソングが流れ、全く同じじゃないか。これは、自分の好きなものや好きな行為が全く変わっていないことを意味するのか、もしくは自分たちの生活がある社会、国が19歳から10年ちょっと経過したにもかかわらず何も変化していないことを表しているのだろうか。手取りのお金も全く変わらないので、大体着ているものもそんなに変わらない。10年経ったらランチくらいお弁当を持ってこないとかそんなことすら考えてなかったし、毎日外食をしたいわけでも高級なものを食べたいわけでもないが、芝生にごろっとしながらジップロックに入ったお米とピクルス、そのほかのおかずを食べている。すごく美味しいし、幸せを感じているが、同時にこの10年ちょっとの間に何が変化したのだろうか。10代の頃は、歳を重ねると色々なことが変化するのかと思っていたが、この10年の変化のなさ(もちろん、他の部分の変化はあるだろうが)を見てしまうとおそらく40歳になっても夏には、ショーツにシャツを着て、トートバッグに水筒を持ち、公園に着いたらシャツを脱ぎ捨てているのだろう。別にそれが年齢に帰依するものではないにしろ、それはそのままなのだ。好みなのだろうか、もしくは社会的変化のなさなのだろうか。前者だと思いたいし、そう思っているが、それさえも自分自身でまだわからずにいる。
自分で変化をさせるかさせないか、それだけなのかなとも思う。変化を求めればそこに新しいものがあり、変化を求めなければ社会の流れがそこにはある。
 既に8月。