2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.6

Translate

2022.7.6

Vacant永井さんと吉田さん、TOO MUCH辻村さんのBOOK CLUB 企画 Vol.0にお声がけいただき参加。ベックさん、きよしさん、作本さん、ぼくの7名。もしかすると、きよしさんではなくやすしさんからしれない。というのも、辻村さんから「これから来る人は双子の一人で、名前がやすしときよしなんですよ」と会う前に紹介を受けていたので、どちらがどちらかがわからなくなってしまう。やすしさんかきよしさんの一人がいらっしゃった。
実験的に始まった企画らしく、形になるのかならないのかもまだわからないがVol.0としてスタートしたのだという。川端康成『美しい日本の私』を読んでおいてくださいとpdfが事前に配られていて、それについてみんなでディスカッションするという企画。
2時間ほど話していたので、どんな話があったかというのはここには書き切れないのだが、ぼくのこの文章の読み方が、他の人と全く違うのだなと思ってしまった。それは、読み方の違いというか今の状況の違いとか立場の違いとか、そもそも本を読む理由とか、そういうものまでもが違った。自分の意見だけをここに書くとすると、川端の考える美と作中で引用される詩の中にある美がそもそも違うものなのではないかと思った。美について語られるだろうことは想像できていたので、それについて考えておこうと思ったのだが、西洋と東洋という比較の中で生まれる東洋の美(例えば神秘主義のような)と、西洋を意識せずその目の前にあるものに対する自分の感じた美(自然などに美を見出す)という、違いはこれを読む上で必ず明確にする必要がある気がして、川端康成が作家でありながら、引用を多様しているところに、「伝えられなさ」「伝えたくなさ」のようなあいまいな感情はある気がした。わからないものを浴びた時のパワーたるや、というのはぼくの体験の中にあり、それを西洋に向けて東洋文化の神秘性(理解ができなさ)をわからないままに出すことで、伝えたのではないかと思った。なんで、こんなに理解できないことをノーベル賞の授賞式のスピーチで話したのかがそもそも理解できないということ、それが先ほど書いた「伝えられなさ」「伝えたくなさ」のようなあいまいな感情につながるのではないかとも思ってしまった。
他の人の話を聞いていると、ぼくは勤勉ではないのかもしれないと思ってしまった。というのも、何か違う作品をレファレンスを引用し、作品を語るということができず、実体験を元に話をしていたから。何もレファレンスせずに、それがイケてると思って生きていたと同時に、他の人の勤勉さを目の前にして、不思議な気持ちになった。ぼく自身も、レファレンスを大切にしてきた時代があり、しかし、フィジーに住み始めた頃から、その概念が潰れたと言ってもいいかもしれない。フィジーの話は、ぼくを語る上で切り離せないことなんだなと最近よく感じる。特に、みんな面白がってくれるので、もっと記憶を頼りに言語化するべきだ。
楽しい会が終わり、辻村さんと作本さんと渋谷で中華。そのまま歩いて代官山へ。歩きながら、肉を食べないこと、石垣島の大神島、宇宙人、ぼくの実家のお店の話、本、ペットブームなどの話題で話す。
日を跨いだ24時半ごろ帰宅。