2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.27

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2022.7.27

今日も、同じことの繰り返しだが、Stellaとランニング。
昨晩、ストレッチを30分ほど入念に行ってから寝たのだけれど、毎朝感じていた寝起きの腹痛が軽減された。スッと起きることができる。背中から来る痛みだったのだろうか、背中が凝り固まりすぎていてその痛みが腹部にまで回ってきているのかなと予想できるが、実際には何が起きているかわからないがとにかく軽減されていて驚いた。
大江健三郎『人生の親戚』を読み進める。久しぶりに、音楽を聞くよりも、映画を観るよりも、人と話しているよりも、本を読みたいと思わされる物語に夏の砂浜の波が引くときの力のようにぐいぐいと引き込まれていく。自分はもし人生において絶望に絶望を重ねて、それでもなおそれを一人で抱えて生きていくだけの覚悟はあるだろうか。この物語の登場人物たちは、生きることを選び、死んでいったものたちを記憶しているのは自分だという意思を持ち、美しいまでに絶望の中でも飄々と生きている。そういう物語を読んでいると、ぼくには聖子ちゃんというかけがえのない人との物語があり、それをぼくたちはまだはっきりと語る術を持っていない、今まだそれを建設中なのである。Cairo Apartmentは、その物語を語るに値する存在であり、建設中の家なのだ。建設中から、物語を語る術を探っている。そうやって一冊の本が完成した。みんなの心の中にあるのだ、その語るべき物語が、ぼくはぼくしか持っていない語られるべき物語を語りたい、人の人生を間借りしたような、横綱のまわしを借りて相撲を取るようなそんなことは決してしたくないのである。
帰宅後、そうめんを食べながら、サッカー日本vs韓国を観戦。Jリーグ組の代表戦で、お客さんが入らないというのは、結局のところ、日本代表が人気がないのか、それか観戦チケットが高価か、ロケーションか、Jリーグの選手が人気がないのか。もし、Jリーグの選手が人気がないというのであれば、結局日本代表のファンというのはミーハーな層によって支えられており、ミーハーなファンが反応しない選手が出ないのであれば観戦しない。現に、PSGのツアーは大成功だった。それにはぼくらが昔やっていたTVゲームのように分かりやすいだけのスーパースターが揃っているからで、そういう風に考えていくと、結局のところ、日本サッカー全体にはミーハーなファンが多いということになるだろうし、ミーハーな人はミーハーな人に影響を受けながら生きているので、「サッカーが人気ない」と誰かが言い出すとどんどんと離れていくだろう。ミーハー人口の増加の根源には、「思考力の低下」、「探究心の減少」などが大きく絡んでいる。それは学校教育でもあり、もっと辿れば家での日々の教育であり、生活なのである。サッカーファンが減りました、と新聞の記事で大々的に報じ、それに対して危惧を表明するサッカーを仕事にする人。市井の人間でただ事象に対して文句をいい、煽り、アクションを起こさない人たちは、自分の生活を顧みることである。そこに彼らの問題とするものの多くは蔓延っている。国ないし、チームなど大きな構造は幻想であり、それらが何かを変えることは難しい、ぼくたちが死ぬまで持ち続けられるものは、自分自身しか持ち得ない「自分の意思」というものである、そこに意思決定という決断する権利をも有するのである。
話がずれたので、サッカーや文化の話に戻ると、大事にするべきは辛い時も嬉しい時にも離れず、観戦してくれいるコアファンであり、それを主軸にそのサブジェクトにまつわることを構成していけば自然と質の良い、気の利いたものになっていくのではないだろうか。サッカーだけではない、これは大きな日本の文化に蔓延る問題なのだ。今夜も、体操とストレッチをして就寝。