2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.23

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2022.7.23

朝、7時に家を出てStellaとランニング。また調子が良くない、特にやっぱり左の身体の内部が痛い。みぞおちの左奥、肋骨の裏側に鈍痛と剥がしたくなるような感じの違和感をまだ感じている。気にしすぎてどんどん悪化しているのか、少しイライラとするような感覚さえある。気分が持っていかれるので、私生活にも支障をきたしている。背中にも痛みがあり、それは、椎間板の痛みにも感じる。特定の一箇所が痛く、そこから痺れがきているような感じがする。
家に帰るとマイちゃんがうちにディナーを食べに来ていた。インド人が手作業で仕上げたという白いドレスを着ていた。不良品だと言っていたが、ぼくにとってはとても味のあるドレスに見えて、どこが不良品なのかと聞いたところ、「このボタンの感覚がちょっとずれていて〜」と話していたが、なんだかそのドレスが作られることになったストーリーの軸になっているであろう「インド人の手作業」であることはインドでの手作業文化への敬意とかそういうものではないんだなと感じてしまい、結局、インドの手作業への敬意ではなく、そこにある物語は、自己欲求もしくは顕示欲のような洋服作りなのかと
少し残念な気持ちになった。手作業を歓迎するのであれば、そこに生まれた小さいアクシデントさえも受け入れていくことをお客様に許容してもらえると価値観が多様化して楽しいのではといつも思うのだ。会社って、結局そういうアクシデントを癌として取り除いてしまうからぼくの考え方とあまり合わないんだよなとまた思ってしまった。
最近、ランニングをしたり散歩をしたりしていると、Stellaのトリートを右手に隠し持ちながら歩くのは、ファシズムの始まりではないかと考えたりもする。権力者と労働者的な関係が成立してしまい、何かやったことに対してトリートをもらえる(与える)という構造には、不思議と違和感を感じるのだが、犬自体もそれを喜びと感じてしまっているのだろうか。「平等にいようぜ」と言っても犬たちは、人間の言葉の意味をその意味や音だけから理解することはなく、彼女たちの記憶の中からどのようにすればそのトリートをもらえるのかを知っているので、率先して色々とやってくる。
そもそも犬を飼うこと自体が、犬が番犬や猟犬として人間の生活を支えていた時代にあったはずの人間と犬の相互扶助の関係を超えてしまっていて、ぼくらが出来ない
犬にしかできない、犬がすることを得意とするきちんとした仕事を与えるということを忘れてはいないだろうか。
愛玩犬としての小型犬が増えていくことはどうか?大きい犬を飼うこと、お互いに補完しあって生きるということそんなことが今日の散歩中には頭の中をぐるぐると巡っていた。
Stellaとぼくの関係の中での、彼女の仕事というと、精神的な喜びを与えてくれることや、数日前にこの日記に書いたようなトリックスター的な存在価値、それらが彼女の仕事となっているのだろうか。野生動物的な感性など。