2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.2

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2022.7.2

朝、6時に起きて、お弁当用のお米を炊いて、Stellaとランニングへ。非常に暑いので、Nikeのノースリーブトップスとスパッツで走る。日々、そんなに長い距離を走っているわけではないのだけれど、それでもランニングのおかげか、日々快調である。身体を動かすことが向いている身体だと坂井先生にも言われているので、走れと散々言われていたが、これまで躊躇していた。やっぱり走ると心が明るくなっていくような気がする。
7月は苦手だ、2019年の7月にパニック障害になった。毎年夏になると自分がまた爆発してしまうのではないかと警戒している。2019年に苦しみながら作ったshopifyのプレイリストも今年は聴けるようになった。明らかに過去3年とは違う感覚がある。生の喜びを感じられる。それも、もしかすると2019年の6月にやめてしまったランニングをまた2022年の6月から再開したこともあるのだろうか。もしくは毎朝の日光浴か、聖子ちゃんとStellaとの生活が安定してきたからか。とにかく3年のブランクを経て、再びぼくは走り出したのだ。やめていたことを再開するのは非常に難しい。きっかけは大概において些細なことなのだろうが、あることが起きて、流れを遮っていた石ころが外れた時のようにふとまた始めることができたりする。同時に、ふとしたことで、長く続いていたことをやめてしまう事もある。
大江健三郎著『あいまいな日本の私』を読んでいるのだけれど、その中に戦後のサルトルによるモーリヤック批判について書いてあった。サルトルが「モーリヤックは神の視点に立って小説を書いている」と批判したあれだ。
「モーリヤックは神様の視点で書く、神様のように世界を上から見下ろしていて、人物のあらゆることを書くことができるとして小説を作っている。そうじゃなくて、私たちは小説家という一人の人間が見る見方でした世界を書けないんだと認めて、そういう書き方をしなきゃいけないと主張したのがサルトルです。サルトルの理論は、明らかに「一元描写」の線につながっているな要素を持っているんだ。」(大江健三郎『あいまいな日本の私』)
この事件について、あまり詳しく知らなかったのだが、ぼくの感覚としっくりくるものがあった。ぼくたちはあくまで作家として自身の世界の見方を持ち、その視点でしか世界を見ることができないことを認めて、そんな風に自分の言葉で世界を語る、物語を紡ぐ必要があるのだ。ぼくがここの日記で常に実践していることは、まさに自分の視点で日常と自己を語ることだけなので、作品ではないし、日記は常に日記としての一元描写力を持っていると思うが、日記の手法を好むぼくとすると一元描写以外の描き方をしようとしていない。それは、写真を撮るときもそうだ。
昨日は、半袖のストライプシャツを着ていたのだが、今日はショーツで街に出た。昨日の日記に書いたのだが7月にならないと肌を出す気になれない。
もう7月だ、誰に何を言われる筋合いもない、ぼくらは自分の意思と自由を着ているのだ。