今日から7月。もうすっかり気温も空も夏だったのだけれど、6月ってだけでどうもしっくりこない部分があった。だけど、もう今日から7月ということで、心から夏だと言える気がする。それって、不思議なもので、数字をきちんと認識しているのは、脳がしっかりと発達している人間らしいよなと思う。
ぼくの中になんとなくルールがあって、7月にならないとなんとなく街に出るのにショーツが履けないとか、なんとなく半袖で出歩けないとかそういうなんとなくのルールというか感覚もあって、それって6月の真夏日でも「夏ですね」と言えない自分というのと感覚的にはなんとなく似ている。
Stellaを見ていると、季節が変わって暑かったら毛が抜けるし、いつもごろっとしている家の特等席が暑かったら涼しい場所を見つけてごろっとするし、すごく肌感覚を大切に生きている。ぼくと一緒にランニングしたり、興奮して鳥を追っかけたり、瞬間瞬間の楽しいことや興奮を優先して、暑くてぶっ倒れるとか、そういうのを見ていると、Stellaはやっぱり動物としての生をまっとうしすぎていているなとちょっと羨ましい気持ちになる。
暑いとはいえど、まだ夏のようなうだる熱気の暑さを心地よいと感じられる気分とか、エモーショナルにさせるような光の質感とか、そういうものが6月の真夏日にはあまりなくて、とにかく暑いし、夏っぽいんだけど心が追いつかないというか、なんとなく乗り切れないというか、「夏のリプロダクト」のようなものが6月の真夏日にはあるような気がしていた。どれだけ東京が暑くても、ぼくたちの日々の営みを無視するかのように太陽は例年通りの6月の行進をしているし、それだと、光の差す角度とか、質感とかはまだぼくが好きな夏のあれではない。何より「夏が来た」「この暑さを何もせずになんとか乗り切ろう」「夏が終わってしまう」という特に夏という季節が想起させる3つの大きな感情の中で、「夏が来た」には5月の気持ち良い天気をこえた後にある梅雨を耐え凌ぐことと関連している。コップの中に水が溜まっていくように夏への想いがどんどん溜まっていく。それが溢れるタイミングが7月。センチメンタルになってしまうのも7月。それだから、夏は危険だ。
とにかく、何を言おうとも7月が来たのだ。夏は感情的になりやすいので、夏が長くなるとセンチメンタルになりすぎて傷心してしまう、勢いよく「夏が来たぞと興奮してしまうのも時期尚早、良くない」と思いつつも、ブルーの半袖ストライプシャツに袖を通していた。明日にはきっとショーツを履いてしまうのだろう。
ぼくの中になんとなくルールがあって、7月にならないとなんとなく街に出るのにショーツが履けないとか、なんとなく半袖で出歩けないとかそういうなんとなくのルールというか感覚もあって、それって6月の真夏日でも「夏ですね」と言えない自分というのと感覚的にはなんとなく似ている。
Stellaを見ていると、季節が変わって暑かったら毛が抜けるし、いつもごろっとしている家の特等席が暑かったら涼しい場所を見つけてごろっとするし、すごく肌感覚を大切に生きている。ぼくと一緒にランニングしたり、興奮して鳥を追っかけたり、瞬間瞬間の楽しいことや興奮を優先して、暑くてぶっ倒れるとか、そういうのを見ていると、Stellaはやっぱり動物としての生をまっとうしすぎていているなとちょっと羨ましい気持ちになる。
暑いとはいえど、まだ夏のようなうだる熱気の暑さを心地よいと感じられる気分とか、エモーショナルにさせるような光の質感とか、そういうものが6月の真夏日にはあまりなくて、とにかく暑いし、夏っぽいんだけど心が追いつかないというか、なんとなく乗り切れないというか、「夏のリプロダクト」のようなものが6月の真夏日にはあるような気がしていた。どれだけ東京が暑くても、ぼくたちの日々の営みを無視するかのように太陽は例年通りの6月の行進をしているし、それだと、光の差す角度とか、質感とかはまだぼくが好きな夏のあれではない。何より「夏が来た」「この暑さを何もせずになんとか乗り切ろう」「夏が終わってしまう」という特に夏という季節が想起させる3つの大きな感情の中で、「夏が来た」には5月の気持ち良い天気をこえた後にある梅雨を耐え凌ぐことと関連している。コップの中に水が溜まっていくように夏への想いがどんどん溜まっていく。それが溢れるタイミングが7月。センチメンタルになってしまうのも7月。それだから、夏は危険だ。
とにかく、何を言おうとも7月が来たのだ。夏は感情的になりやすいので、夏が長くなるとセンチメンタルになりすぎて傷心してしまう、勢いよく「夏が来たぞと興奮してしまうのも時期尚早、良くない」と思いつつも、ブルーの半袖ストライプシャツに袖を通していた。明日にはきっとショーツを履いてしまうのだろう。