2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.19

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2022.7.19

朝、上野毛までStellaとランニング。もちくんという柴を飼っている白人カップルと話す。ぼくらの犬はStellaだし、彼らの犬はもちくんだし、なんだかあまり意識はしていなかったが、いまだにやはり旧時代的な、西洋への憧れ、東洋への憧れというものが存在するのだろうなと思ったが、それは単純に西洋、東洋というものではなく、異国へのないしは異国文化への憧れというものか、もしくは現状打破というようなもの、過去への執着などもあるのだろう。イギリスの犬に「Stella」という名前をつけ、日本の犬に「もち」という名前をつける。
ランチは、オーガニックイタリアンレストランにて、しらすとフレッシュトマトのアラビアータを食べる。伊東豊雄建築のこの店に久しぶりに来た。インテリアがダサすぎて、100回以上はいくのを諦めたことがある。しかし、食事はきちんと美味しいし、オーガニックだし、なんとなくそれなりにまともな味のパスタを食べようと思う時には来るようなふわっとしたお店。気に入っているのかと言われると、気に入ってないというし、でも気に入ってないの?と聞かれると、気に入ってなくはないと言うだろう。
それなりに気持ちよく食べていたのだが、前菜を食べているあたりで隣の席にどすんと座った女性客の言動のせいで一気に気分が崩れ始める。ここからが悪夢の始まりだった。ドラマは何気ない人の行動から始まる。ホラー映画の鉄則である。着席するやいなや話し方は奇妙だし、座り方も実家のソファに腰掛けるくらい腰を滑らせてiphoneを触っており、「おいおいここは少なくともパブリックスペースだし、向こうには商談しているきちっとスーツを着た男性もいるし、向かいには今にも告白でもしそうなデート中の若いカップルがいるんだぞ」と思ったが、そんなこともお構いなしに、そのお客はiphoneを無表情に眺めている。
「えっこれって〜、」を口癖としているようで、何をいう前にも「えっこれって〜」と言葉の頭につけるもんだから、鼻について仕方ない。「えっこれって〜、カルボナーラのパスタのコースで、、、、」もうすでにこの「えっこれって〜」は、「えっこれって〜」の意味を持たない言語と化している。彼女にとっては、「えっこれって〜」は、おそらく「えーっと」に近いのかもしれない。
左手でiphoneを触りながら、右手のフォークで日本庭園にあるししおどしのようにリズムよく、前菜を口に放り込む。何を口に入れているのかみていないようで、そこにカブトムシでも入れてみてもきっと彼女は気づかないだろう。
どんな顔つきなのか気になり覗き込んでみたが、正気のない、とても表現に困るような顔をしていた。それ以上に、あの浮いたようなふわふわとしたメイクをしている人はなんなのだろうかと疑問に思ってしまう。高校生ならまだしも、もう30代を越えようとしているのに、まつ毛が浮いていたり、メイクが下手だなと感じる人がたまにいるがこの女性客もそのうちの一人だった。これは決して女性差別とか、女性軽視とかではなく、毎日していることなのだからもう少しクオリティをあげようという意思は無いのだろうか、もしくはしたく無いならしないという選択肢もあるだろうし、他にもまつげのエクステとか選択肢は無限にありそうだが。日々の探究心の欠如がそれを招いているのだ。
普段からサービス業を生業としているだろう黒髪をポニーテールに束ねたさわやかな女店員がカルボナーラをその女性客のテーブルに運ぶ。「えっこれって、タバスコとかありますか?」と。一瞬耳を疑った、カルボナーラにタバスコ?カルボナーラにタバスコをかける嗜好がまず理解できないのだが、そもそも食べても無いものに何か調味料をかける神経がわからない。それも塩でもペッパーでも、オリーブオイルでもなく、タバスコである。メキシコの赤トウガラシを原材料とするアメリカ生まれのアレである。百歩譲って一口でも口に運んでからもう少し酸味や辛味が欲しいのでタバスコあれば、まだ理解しようとしてみるが、食べる前から辛いもので味を調整しようとするその愚かな行為は、もう全ての拒否であり、シェフや野菜を作る人たちへ威厳にもかかわる重大な問題だと感じ、ぼくも隣に座っていて、なんだか色々嫌になってしまい、さらには同じ空気を吸っていることさえも嫌になり、責任感さえ感じてしまい、数分後、さわやかな女店員が持ってきたタバスコを奪い取り、カラスも驚くような勢いで立ち上がり、左手でタバスコの赤い蓋をひねり飛ばし、右手をブンブンと7回裏の神宮球場にでもいるかのように上下に振り、隣の女性客の頭の上からぼとぼとと真っ赤なタバスコをぶっかけてやった。もちろん、卵黄で神々しく輝いているカルボナーラにも、彼女のサヴォア邸にあるチェーズロングをおもわせるくねっとしたその姿勢の悪い身体にも、その下手くそなメイクにも、彼女の喜びの全てを運んでくれるそのお気に入りのiphoneにも、キー局のアナウンサーの着ているものの紛い物のような気持ちのこもっていないそのベージュのトップスにも、全て至る所に、彼女がこの店に入ってきてから全てのものに対して行ってきたことと同じことをするかのように、全てを拒絶するかのように、ししおどしのようにひたすらに、「えっこれって〜」と言いながら、タバスコをぶっかけてやった。
そんなことばかり気になりながら考えながら、黙々とトマトソースパスタを食べていると、ぼくの脳内の思考の動きに動揺したかのように、食べている途中にも関わらず、間違えてエスプレッソが運ばれて来て、間違いに気付き戻っていった。おそらく、さっきのポニーテールの女性店員の伝言ミスだろう。タバスコが運ばれてこなくてよかった。5分後くらいに食べ終わって、すぐにエスプレッソが届いたのだが、おそらく入れ直しもしていない、クレマがなくなっていた。酸味も強くなり、ぬるい。こういうエスプレッソが僕は一番嫌いなのだ。このエスプレッソ美味しくないな、と思っていると、隣の女性客はアイスラテを半分ほど飲み残して帰っていった。なんだか情けない気持ちで、ぼくも彼女の後を追うように店を出た。
結局のところ、この日記では散々書いているが、料理は料理として独立して成立していないなと実感することになった。いいお客さんがいるお店がいいお店である。実は、彼女は、タバスコという異国への憧れの象徴だったのかと夜散歩をしているときにふと思ったら、ぼくたちのStellaと白人カップルのもちくんと、女性客のタバスコは同系列に感じてしまった。