2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.17

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2022.7.17

今朝は、寝坊してしまったので、近くのせせらぎ公園までStellaと少しだけ散歩。
丸の内の一保堂に行きほうじ茶を買い、マイちゃんからいってねと連絡が来ていたので昨日開店したばかりのYAECAの新店舗を覗いて、東京駅前の丸善本店にいく。丸善で、聖子ちゃんからお願いされていた『Goodevening Mr.Moon(おつきさま こんばんは)』の英語版を買う。今月子供が産まれる予定のGraceちゃんに送るというのだ。子供のことを考えると、自分は何かいろいろなことに目を瞑り、背を向けているような気分になってしまい、胸が苦しくなるのだが、それをここに書くことじたいも正直にいうと葛藤と不思議さを併せ持っているのだ。ぼく一人で子供を産めるわけではないので、そういう感情を葬りながら生きていくしかないのだろう。そう書くと自分だけが我慢しているような表現にはなってしまうが、それは違うのだ。ぼくもこの感情をうまくコントロールできず、誰にも相談できず、ここに書く以外にこの気持ちを身体の外に追いやる術が見つからないのである。書かなくていいことは書きたくない、誰かに話して済むことがあるのならそれでいい。ぼくには本当に全てを話せる人がいないのかもしれない。聖子ちゃんがそのうちの一人であることは確かで、ただ聖子ちゃんとの時間を多く持つ中で彼女との問題だったり、言いたくないことも、くだらなさすぎて聞いてもらえないことも増えてくるのである。その感情をどこに向かわせるか、きちんと正しく出口を見つけてあげることが人間の使命なのではないかと思うのだが、ぼくはそれが得意ではない。先日の産業医との会話のように、ぼくのことを全く知らない人との会話が時に自分の感情の出口を作る手助けになることも実際多い。家族でもない、彼女でもない、同僚でもない、友人でもない、名も知らない人が時にぼくのどうしようもない感情の出口を見つける手助けをしてくれる。「人は、それを自分自身で感情の出口を作ることで強くなっているんだ」と彼女はいい、自分で感情の出口を見つけられないことをぼくの心の弱さだというのだが、本当にそうなのだろうか。こうやって時に絶望的な感情が夜の海の波の音のように迫ってくるのである。
丸善で、レイモンド・カーヴァ『What We Talk About When We Talk About Love』を探すが見つからず、子育てが終わってこれからの人生は自分のものだという表情をした女性店員さんに在庫を確認してもらうが、結局見つからない。
メルボルンのエミリから翻訳を依頼していたぼくのnidi galleryの時に撮ったインタビューの英訳が届く。