2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.15

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2022.7.15

仕事終わりに、LA在住のデザイナー八木 保さんが企画され明日から東京都現代美術館で開催されるJean Prouve展のプレビューに参加。
今回集められた全ては、塗り直しのされていないオリジナルであること、これまで集められなかった工場で使われていた大きな扉やファサードなどが一堂に介す展覧会となり、スケール感のある展覧会だった。八木さんが以前トークイベントで今回はキュレーターの藪前さんが無理を聞いてくださったと言っていたのが、印象的だったのだが、確かにスケール感は想像以上に感じた。
工業化する社会のなかで自分のデザインに対する意思と美学を貫きながら、レジスタンス運動を推進し反抗しながらも、一方で、社会の流れを止めるわけではなくその流れにヒョイっと乗る彼(ぼくには乗っているように見えた)は、いかにクリエイティブなエネルギーがあったかが容易に想像できる。「生産」と「デザイン」との狭間で、さらに技術や素材が限られていく戦中、戦後に強い探究心を感じてしまう。
1Fの椅子やテーブルなどのコーナーは特別に不思議な感情に駆られてしまった。モノがそこにありそれを目の前でみると、現代に溢れるリプロダクト製品のせいか、なかなか真っ直ぐにそのもの自体に対峙することができないなと感じてしまった。「リプロダクトとオリジナルの違いをぼくたちはどのように認識し、理解してゆくのだろうか」というのが、この消費と欲求で溢れたこの時代に生きるぼくらの感覚なのではないだろうか。少なくともぼくは今日それを強く感じてしまった。その差は、自分が所有し実際に使うことでしかわからないとぼくは思っているので、なかなか体系的な展示を見ているだけでは感覚的にしっくりとこない。色、形、全ての部分で微妙に違うのだから、その細部のディテールに本人のエッセンスが宿る。ただ、アートピースのように手作業で生み出されたものではなく、生産品なので、じゃあプルーヴェ自身が今日都現美で展示されているzozo前澤さん所有の椅子を見て色を確認したか、形を確認したか、というとそうではない。さて、この問いの答えはどこにあるのだろうか。その時代のその産業でしか出せなかった色と形があり、それをデザイナー本人が自分の時代で自分の目で工場で確認し作っている。その生産過程を経たプロダクトをオリジナルとし、現行品としてその時代、彼の正式な承認を得ずに、権利だけを得た会社でOEM的に作られているものをリプロダクトとするのか。そして、現代を生きるぼくたちにとって同時代の生産に乗っているリプロダクトと過去の生産でしか作れなかったオリジナル、どのような価値と自分への影響を感じ取れるのだろうか。
ぼくは、リプロダクトに関してはかなり懐疑的で、リプロダクトは、ただの欲求を満たすだけのものでしかなく、その時代の社会情勢や感情がそこには乗ってこない。新しい作り手はその時代と社会情勢を映し出す作品を作るべきなのだ。デザイナーは、苦境、苦難の日々の中でいかに豊かな暮らしを提供できるかが使命なのである。仮設住宅やその時代の安価な素材に切り替えて家具を作っていたりするデザイナーを見ているとデザインは救世だなと思えてならない。デザイナーの自己顕示ではなく、生活者の欲求を満たすものでもなく、社会の救世なのである。そう考えると、リプロダクトは、デザインやデザイナーへの敬意が強くなりすぎてしまい、その時代を生きる使い手の意思や感情を無視しているように思えてならないのである。
それにしても、なぜJean Prouve展が都現美での開催なのだろうか、現代美術的な感覚との接点なども知りたいなというのが正直な感想。