エミさんとアンダースくんが家に遊びにくる。
メルボルンのPiedimonte’s というローカルスーパーマーケットでエミさんとは知り合ったのだが、それ以来ずっと仲良くしてもらっている。エミさんのパートナー、クリスとは、Terra Madreというオーガニックグローサリーで初めて会い、その時彼はスイカを抱き抱えていた。そのまま家にお誘いを受けて、ラムシャンクとクスクスをいただいた。まだアンダースくんが生まれる数年前の話。作家だとかそういうのは横に置いておいて、楽しく刺激をもらえる二人に出会ったのは人生の大切な出来事だったと思う。
エミさんに最後に会ったのが、聖子ちゃんがコペンハーゲンに行く前だというので、調べてみたけれど、おそらく2018年ぶり。最後にあったのは、銀座のオーバカナルで、クリスとエミさんと聖子ちゃんと4人でお茶をした気がする。アンダースくんはお留守番をしていて、エミさんとクリスがふっと一息ついて好きな銀座に来れたという話をしていた気がする。
その後、一度クリスとは、2019年の2月か3月ごろに会っている。DSMを訪ねてきてくれたので立ち話をした。あの時は、クリスが突然きてくれたので、なんだか夢のようだったし、ふわっとしながら話をしたのを覚えている。
彼らとの思い出話やぼくや聖子ちゃんの人生にどれだけ影響を与えてきたかということを話だすとキリがないし、それを正直多くの人に共有したいとも思わない。ぼくと聖子ちゃんだけがそのもののありかを知っている宝物のようにしたいし、丁寧に織られた白いシルクの布に親鳥が子供を抱えるように包んで、心のどこかに閉まっておいて、ときに困ったり悩んだときにはそれをプロセッコがひたひたに注がれたグラスを運ぶようギャルソンのようにリズム良く丁寧にかつ壊れないように取り出し眺めたい、そんなものの一つなのだ。ただ、丁寧に扱うだけでは、そのもの自体の魅力というものが失われてしまうというところがミソなのだ。
いつ会っても、刺激と気付きと正しをいただけるような人たちなのであるが、今日はクリスがいなかったけれど、二人と唯一話せるのは、作家としてどう生きるかということなのかもしれないと思った。エミさんが、ぼくが展示をしていたときにふとINSTARGAMでポストしたその時の自分の感情に「私もその感情知ってる」とご連絡をくれたのだけれど、作家というのは他人からどれだけ良いものを作っていると言われても、ファンがいようとも、それでも作るということ、それを発表するということは不安だし、それゆえとても楽しい。その感覚だけがぼくと聖子ちゃんが彼らと対等にもてる感情なのかなと思った。もちろん、比較することや上下関係などはそこには存在しないのだが、それ以外は自分の幼稚さや未熟さを曝け出すだけで、会話することさえも「してもらっているのではないか」と思うほどである。少々大袈裟ではあるが、ぼくと聖子ちゃんにとって彼らにアンダースくんが加わった3人は、ぼくたちの頭の片隅に常にいる存在で、力強く生きるために自分のやっていることに対して勇気を与えてくれるし、ふと踏み外しかけていた道を正してくれる。ぼくたちが勝手にそう思っているだけで、彼らにはそのつもりは全くなく大切な友人の一人として接してくれているので、それがまたぼくたちの人生に勇気を与えるのである。
こんなに個人的な感覚を特定の方々に向かって書くのは、ある種彼らを気負わせることになってしまわないかという一抹の不安はよぎるのだが、今日はちょっと書かずにはいられなさそうである。
一日の中で、Stellaとアンダースくんが仲良くなっていき、最後の別れのシーンは心が締め付けられるような感覚さえあった。
メルボルンのPiedimonte’s というローカルスーパーマーケットでエミさんとは知り合ったのだが、それ以来ずっと仲良くしてもらっている。エミさんのパートナー、クリスとは、Terra Madreというオーガニックグローサリーで初めて会い、その時彼はスイカを抱き抱えていた。そのまま家にお誘いを受けて、ラムシャンクとクスクスをいただいた。まだアンダースくんが生まれる数年前の話。作家だとかそういうのは横に置いておいて、楽しく刺激をもらえる二人に出会ったのは人生の大切な出来事だったと思う。
エミさんに最後に会ったのが、聖子ちゃんがコペンハーゲンに行く前だというので、調べてみたけれど、おそらく2018年ぶり。最後にあったのは、銀座のオーバカナルで、クリスとエミさんと聖子ちゃんと4人でお茶をした気がする。アンダースくんはお留守番をしていて、エミさんとクリスがふっと一息ついて好きな銀座に来れたという話をしていた気がする。
その後、一度クリスとは、2019年の2月か3月ごろに会っている。DSMを訪ねてきてくれたので立ち話をした。あの時は、クリスが突然きてくれたので、なんだか夢のようだったし、ふわっとしながら話をしたのを覚えている。
彼らとの思い出話やぼくや聖子ちゃんの人生にどれだけ影響を与えてきたかということを話だすとキリがないし、それを正直多くの人に共有したいとも思わない。ぼくと聖子ちゃんだけがそのもののありかを知っている宝物のようにしたいし、丁寧に織られた白いシルクの布に親鳥が子供を抱えるように包んで、心のどこかに閉まっておいて、ときに困ったり悩んだときにはそれをプロセッコがひたひたに注がれたグラスを運ぶようギャルソンのようにリズム良く丁寧にかつ壊れないように取り出し眺めたい、そんなものの一つなのだ。ただ、丁寧に扱うだけでは、そのもの自体の魅力というものが失われてしまうというところがミソなのだ。
いつ会っても、刺激と気付きと正しをいただけるような人たちなのであるが、今日はクリスがいなかったけれど、二人と唯一話せるのは、作家としてどう生きるかということなのかもしれないと思った。エミさんが、ぼくが展示をしていたときにふとINSTARGAMでポストしたその時の自分の感情に「私もその感情知ってる」とご連絡をくれたのだけれど、作家というのは他人からどれだけ良いものを作っていると言われても、ファンがいようとも、それでも作るということ、それを発表するということは不安だし、それゆえとても楽しい。その感覚だけがぼくと聖子ちゃんが彼らと対等にもてる感情なのかなと思った。もちろん、比較することや上下関係などはそこには存在しないのだが、それ以外は自分の幼稚さや未熟さを曝け出すだけで、会話することさえも「してもらっているのではないか」と思うほどである。少々大袈裟ではあるが、ぼくと聖子ちゃんにとって彼らにアンダースくんが加わった3人は、ぼくたちの頭の片隅に常にいる存在で、力強く生きるために自分のやっていることに対して勇気を与えてくれるし、ふと踏み外しかけていた道を正してくれる。ぼくたちが勝手にそう思っているだけで、彼らにはそのつもりは全くなく大切な友人の一人として接してくれているので、それがまたぼくたちの人生に勇気を与えるのである。
こんなに個人的な感覚を特定の方々に向かって書くのは、ある種彼らを気負わせることになってしまわないかという一抹の不安はよぎるのだが、今日はちょっと書かずにはいられなさそうである。
一日の中で、Stellaとアンダースくんが仲良くなっていき、最後の別れのシーンは心が締め付けられるような感覚さえあった。