朝、Stellaとランニング。あまり長く行けないので大体5kmほどランニング。明日は休みなので、二子玉川まで10kmコースを行こうと思う。
毎朝、Stellaも河川敷に来て何をしているかを覚えてくれているようで、どんどんと鳥を追いかけることを諦め、調子を合わせてランニングを一緒にしてくれるようになってきたように思う。トリートを与えながら走っているからか、ぼくの声かけにもきちんと耳を傾けるようになった。書いていてふと思ったのだが、日本語では、耳は傾けて、聞き耳は立てる。なんだか面白い表現だなと思う。気になって調べてみると、耳を傾けて聞くということは、「傾聴」といい、熱心に聞くことを意味するそうだ。「傾聴」とは、口語ではあまり使われないらしい。耳は貸されたり、傾けられたり、立てられたりして大変だな。とか思っていたが、手は染められて、切られて、焼かれて、食われるのかと思うと、まだ耳の運命は、幸せそうだ。
夜、散歩をしていると、通りの電信柱のすそのところに、きれいにはっきりと読みやすい文字で「犬猫 糞尿禁止」と書かれてあり、その上には朱色の鳥居のマークが描かれている。これをどんな風に解釈するかにもよるのだが、「神様には小便をかけるな」的なことだと簡単に察することが出来る。ここでは小便させないように気をつけないとなと思い早足で通り過ぎるが、しかし神様は本当に文字の読めない犬の小便を許さないだろうか、神様は人間が想像を絶するほどに寛大ではないだろうかとぼくは思ってしまった、というかそうだと信じていたい。神様はぼくたちの罪さえをも受け入れてくださる、だからと言って罪がずっと許されるわけではないが、神様は寛大であると信じたい。
この張り紙からは、その土地の人間が神様という権力を利用し、神様になったかのように市民やドッグラバーに対して禁止令を発令するようなアグレッシブささえをも感じてしまう。ぼくは、その態度こそが、実はその街の不憫さを顕著に表してしまっているのではないかと思ってしまった。もしかすると、以前は、神様の権力を無断行使しないといけないほどに、大変な事件がそこではおきていたのかもしれない。ぼくには、この街が神様の力による救済を必要とするほど荒廃してしまっているようには見受けられない。それが小便だとしても、この街では野小便さえを許容する仏のような人間がたくさんいるとぼくはこの土地に住み感じている。
これがぼくの今日の散歩中の見立てである。
毎朝、Stellaも河川敷に来て何をしているかを覚えてくれているようで、どんどんと鳥を追いかけることを諦め、調子を合わせてランニングを一緒にしてくれるようになってきたように思う。トリートを与えながら走っているからか、ぼくの声かけにもきちんと耳を傾けるようになった。書いていてふと思ったのだが、日本語では、耳は傾けて、聞き耳は立てる。なんだか面白い表現だなと思う。気になって調べてみると、耳を傾けて聞くということは、「傾聴」といい、熱心に聞くことを意味するそうだ。「傾聴」とは、口語ではあまり使われないらしい。耳は貸されたり、傾けられたり、立てられたりして大変だな。とか思っていたが、手は染められて、切られて、焼かれて、食われるのかと思うと、まだ耳の運命は、幸せそうだ。
夜、散歩をしていると、通りの電信柱のすそのところに、きれいにはっきりと読みやすい文字で「犬猫 糞尿禁止」と書かれてあり、その上には朱色の鳥居のマークが描かれている。これをどんな風に解釈するかにもよるのだが、「神様には小便をかけるな」的なことだと簡単に察することが出来る。ここでは小便させないように気をつけないとなと思い早足で通り過ぎるが、しかし神様は本当に文字の読めない犬の小便を許さないだろうか、神様は人間が想像を絶するほどに寛大ではないだろうかとぼくは思ってしまった、というかそうだと信じていたい。神様はぼくたちの罪さえをも受け入れてくださる、だからと言って罪がずっと許されるわけではないが、神様は寛大であると信じたい。
この張り紙からは、その土地の人間が神様という権力を利用し、神様になったかのように市民やドッグラバーに対して禁止令を発令するようなアグレッシブささえをも感じてしまう。ぼくは、その態度こそが、実はその街の不憫さを顕著に表してしまっているのではないかと思ってしまった。もしかすると、以前は、神様の権力を無断行使しないといけないほどに、大変な事件がそこではおきていたのかもしれない。ぼくには、この街が神様の力による救済を必要とするほど荒廃してしまっているようには見受けられない。それが小便だとしても、この街では野小便さえを許容する仏のような人間がたくさんいるとぼくはこの土地に住み感じている。
これがぼくの今日の散歩中の見立てである。