2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.7.11

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2022.7.11

会社の上司と話していると、「今回は、同情して自民党に入れた」と話していて、そんなことがあるのかと驚きすぎたので、信頼できる友人ちゃっぴに「安倍さんがなくなったから同情票というのがあるらしいわ」というテキストをしたところ、
「まあ少なからずあるんちゃう。でも、おむが自民党嫌いなの意外やわ、政治に距離取ってると思ってたわ」と返事が来た。個人的には、政治というか生きることに対して意識的であるということが自分のテーマであり、村上春樹さんのエルサレム賞の受賞スピーチ『壁と卵』であればぼくは間違いなく卵側の人間でありたいと彼と同様に思っているので、政治に距離を置いていようが大きいものに対する反骨心は常にあるつもりだった。
仕事帰りに表参道でヘアカット。知人の紹介で2年間ほどヘアカットをお願いしていた加藤さんに半年くらい間が空いてしまったのだが、お願いすることに。加藤さん、シュークリームの中から出てくるカスタードクリームくらい品性のありエッジの効いた髪型に仕上げてくれるので、長かった髪を一度坊主にして髪が短かった頃はとても気に入っていたのだが、その後髪がある程度伸びてきた頃に、なんとなく誰でも一緒なんじゃないかとか、その時なんとなくの気分もあって、違う人に切ってもらうのもいいのではと思い、数回違う美容室に行ってみた。結果、抑えがたく確実な危機が始まるのを感じ、これ以上放浪している場合ではないと藁をも縋るかのようにコンビニのトイレに駆け込む少年さながらの表情で助けを求めるかのように加藤さんを訪ねているのである。
美容室は、全国に25万店あると言われている。それが多いのか少ないのかすらわからないので、比較対象としてコンビニを例に出すと、コンビニは全国におおよそ5万店舗あるそうだ。あんなにどこにでもあって、多すぎるだろうと思っているコンビニでさえ、美容室の1/5の数しかないのである。
髪を切ることは、手作業でかつ、瞬間芸術なので、日々の生活がその指先にのしかかるのである。何を食べているとか、どんなことを考えているとか、どんな風に女を口説くかとか、それが全て彼ら彼女らの指先に良い刺激と失神するほどの恐怖となってのしかかる。
いろいろなことを放置しておいたり、その場しのぎ的になんとなくで済ませていると、どんどんと自分の理想とかけ離れていってしまうということ最近悩んでいて、それは髪型ないしは美容師との関係においてもそうなんだなと感じているということを
キリスト教における告解のような特別な行為として、懺悔するように、加藤さんに伝えると、
「ジュンさん、別にぼくにそれを全て伝えることはないですよ。なんか浮気した男が彼女に想いを伝えてるみたいになってますよ」と笑いながら、加藤さんはおっしゃっていた。洗礼も受けてないのに、告解をしたことを怒るわけでもなく、笑いながら答えてくれる加藤さんにキリストではなく仏を見たような気分であった。でも、まさにはっきり言って加藤さんに言われたそれがプラスねじにプラスドライバーがハマるときくらいしっくりくる表現で、人に対する罪悪感とか、人との関係を途絶えさせてしまうことへの辛さや悲しみが、今のぼくには耐えられない。一方で、そんな中でも現状への不満や葛藤があって、それらを電気のスイッチを下げて電気を消すくらい簡単に切り替えることは可能なのだけれど、あえてそうせず、納得いかない、葛藤がある、その中でいかにお互いに客が客として作り手が作り手として成長するか、成長させられるかというのが大切なんだと思っている。
まあ、今も単発ではないので、今回も思った仕上がりではない。それって伝えるのが下手なのもあるし、自分の意思表明が明確ではないからなのだろう。政治から距離を置いているように見えたり、自分のしたい髪型がうまく伝えられなかったり、結局人間って、本人の態度や服装や身振り手振りが言葉以上に語っているのかもしれないな。