2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.6.23

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2022.6.23

現代フランス哲学の研究者である福尾匠さんの日記を読む。日記〈私家版〉という書籍を刊行されたそうだ。
自分が試みようとしていることとは違うものの、彼の日記は日記らしいなと感じて、日記書きとしてはなんだか染みるものがあった。日記は、その日起きたある出来事を基本とし、そこから書き手のああでもないこうでもないという思考が広がっていくのが、醍醐味であると思うし、散文ならではのリズムとか、感情を感じられることが楽しみでもある。
自分の考え方はあるにしろ、そこに答えがあるわけでもなく、答えを導き出したいわけでもなく、その出来事に対峙して立ち上がった感情とか、その感情の輪郭とかを描くような日記がぼくは好きなのだけれど、福尾さんの日記はまさにそうだった。ぼくが彼の日記に興味を持ったのは、本当になんでもないことでもそれについて書かれているところで、例えば、こんな日記があった。引用は難しいので、簡単に要約すると、パスタを作ったのだが、茹で汁に塩を入れ忘れてそのままパスタを茹でてしまい、具材の塩加減で味を調整しようとしたが、塩気が立ちすぎてうまくいかないので誤魔化しでミルクを使おうとしたが賞味期限が切れていたという
ちょっとしたミスの積み重ねの話とか、今日は何もなかったけれど日記を書こうと思って日記についての日記を書くとか、全てがそんなゆるゆるとしたものではないのだけれど、そんなアンチドラマ的なところに自分は魅力を感じている。それは日記の醍醐味だと思うし、ぼくもそれが理由で日記を書いている。
例え話は大きくなるが、偉大な映画監督であるマーティン・スコセッシ監督みたいに実話のドラマを描くとなると、ドラマを歓迎しているような感覚になってしまってはいないかと感じる。それは事件(ドラマ)を歓迎するようで、ぼくはしっくりこない。事件(ドラマ)を背景とした美しい人間の心の動きとか、行動とか、そういうものを美しいと思うのは、同じなのだが、ぼくには、それが美しいからといって美しいと描くことが出来ない。実際、そんな作品を作ろうと作っていた時期もあった。だけれど、事件(ドラマ)を歓迎するような態度は、日常を軽視しているのではないかと感じてしまい、しっくりと来なくなってしまったのである。
日記には、風か香りとかリズムを持った文体が似合うし、淡々と続く日々のようなものを歓迎するようで心地よい。人の日記を読むのはとても楽しい。福尾さんの日記を読めたことで、また「ぼく自身が日記を書く理由について」を再確認できたように思う。気づきを与えられる人間でありたいし、気づきに気づける人間でもありたい。