2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.6.22

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2022.6.22

今日は、6時に目が覚める。6時半からStellaと多摩川の河川敷へランニングへ行く。最近、夜になると雨が降っているのだが、朝にはすっかり雨も上がっていて明るい。夜の雨が降る季節ってあるよな、いつもいつだったか覚えてないんだけど。
「昨晩は雨だったし河川敷に行っても、地面がどろどろだろうな」と思うと行くのが億劫になるが、自分の体調のこともあるし、Stellaも毎日楽しそうにしているので、結局毎日行っている。時間がたっぷりあると心も穏やかに走れるので、焦りで身体に変な力が入ることもなくリラックスできる。身体を緩めながら走る。
朝6時台の河川敷には、いつも通りたくさんの犬たちがいて、リードなしで思い思いの時間を過ごしている。飼い主さんたちも毅然とした態度で犬と接していて、飄々としていて見ているだけで心地がいい。帰り道、住宅地の小道に入り、家までのワンブロック分をリードを首から外して歩いてみると、ぼくの進むスピードを確認しながら、きちんということを聞いて歩いてくれて感動してしまった。
帰って、シャワーを浴びて、コーヒーを淹れて、オーブンに昨日聖子ちゃんが焼いてくれたパンを放り込む。聖子ちゃんを起して、stellaの食事を準備する。いつも通りのルーティン。
お昼は、歌舞伎そばでもりかき揚げそばを食べる。1年半前くらいに茹でる方が変わってから、あまり来なくなったのだが、今日久しぶりにきてもやっぱりエッジが効いていない。そばの茹で具合は甘いし、蕎麦湯の出し方も、茹で場のレイアウトも、なんだか前のおばちゃんが先代から継承してきたことが台無しされてしまったような怒りの感情を抱いてしまう。何よりそばの茹で具合が本当にいただけない。どうも締まりが悪いのだ。歌舞伎そばのそばは、ちょっと固いからこそ、そこに「関東人のそばの概念」という無言のメッセージをバシバシと感じ、「これはここでしか食べられないぞ、うまいぞ」と思っていたのだが、茹でる方が変わってからそのへんのチェーン店のような締まりのないべちょっとした茹で具合になってしまっている。それに合わせて客層も悪くなった。もっとスタイルを持ってそばを食べている人が多かったのだが、気付けば安いから来ているような貧相な客ばかりではないか。
実際、茹でている本人が食べているかはわからないけれど、その湯で具合は、結局その人が何を食べているかとか、何を見てどんな生活をしているかという感覚的なところに帰還するのである。そんなちょっとした日々の積み重なりが、そばの茹で具合に繋がるし、その蕎麦屋を繁盛させることにも繋がる。カッコよくスタイルを持って蕎麦を食べている人がいたからぼくもそんなものに憧れてここに来ていたのに、もう今やぼくの好きな歌舞伎そばはここには存在しないんだなと感じた。
夕方、TOO MUCH Magazineの辻村さんとMUJIのラウンジで一服。サングラスとメガネ、ぼくの実家のお店、シュタイナー、辻村さんの実家の馬、Cairo Apartmentの新作、話の話題はそんな感じだった。良い雑談。
夜は、蒸し鶏をするつもりが手が勝手に鶏肉をぶつ切りにしていたという聖子ちゃんが唐揚げを作ってくれた。ぼくの実家の唐揚げをイメージしたと言っていたが、ちょっと違ったけれど、なんかその心意気が嬉しいなと思う。人は、自分の好きなものとかことを実践してくれようとすると嬉しい気持ちになるようだ。食後、2時間くらい写真をさらにまとめようとウェブサイトの更新をして、結局25時くらいに就寝。