2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.6.19

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2022.6.19

朝、早起きしたので、しっかりとStellaとランニング。7時50分に家に戻る。
羽鳥操『野口体操入門』読み進める。
メゾンエルメスのル・ストゥディオでジャン・ルノワール『ピクニック』鑑賞。40分だったので、仕事の合間に行くのにパーフェクトだった。いつも
ル・ストゥディオにくると、京都を思い出すのはなぜだろうか。スカーフや麦わら帽を俳句の季語のようにうまく取り入れ、映画を観に来ている人たちの服装に洒落っけを感じること、それは京都でもよく感じていたことの一つだ。フランス映画といえば、京都の日々を思い出す。それは、京都の人々の趣味だったり、生活に染み付いているものだったりとかから感じられることかもしれないけれど。京都人にフランス好きが多いのはなんでだろう。京都市とパリ市が姉妹都市だからだろうか。
夜は、なんだかまた絶望的な気分になり、26時まで眠れず。自分の日々の行いが自分の首を絞めていく、自分の人生の幅を狭めていく。その行いが、もし癖だとしても、それを受け入れられない人が同じ空間にいて、ぼくはそれを改善しようとしている。なぜならその先には、人生を変えるに必要な出来事が待っているからだ。その人生が変わる出来事を起こすためには、自分の癖を治すことや、日々の生活から安心できるものに変えなければならない。そのためには、Stellaの散歩にも毎朝きちんと行かないといけないし、自分の個人活動も、収入もなければいけない。それに、どれだけお金のためにつまらないことをしていたとしても、心を腐らせてはいけないし、色々なことを知っていなければいけない。興味を少しも失ってはいけないし、他と同じような話し方や振る舞いをしていてはいけない。お金のために働いているのに、お給料が少ないと文句も言えない。文句を言うのはつまらないことだ。
これだけ自分を律して生きていても、結局ふと気を抜いたときに癖が出てしまう。それが結局癖だから、癖は無意識という時間軸が好きなのでそこに訪れる。そして、その癖を受け入れられない人がその場にいる。こうやって常に気を張っているとすごく疲れるし、身体も痛くなる。それでも不調を訴えてはいけない。
こうやって書くと、それくらい当たり前のことなんだろうけれど、例えば、それが「自分の首を絞めるものとなってしまうのでは」と考えながらする当たり前のことは、もうそに時点で当たり前ではないのである。
例えば、CL決勝でパフォーマンスが見せられなかったリバプールのアレクサンダー・アーノルドのようなもので、いつも当たり前にできることが、何か大きなものを背負ってしまうとできなくなるものなのだ。そんなことを思いながら生きている日々の中に、何にどうやって楽しさを見出せばいいのだろうか。毎日、満員電車に揺られて出勤してもお金はないし、ランチだって、ありものを詰めてきたお弁当を会社員に囲まれながら公園のベンチで食べている。別に、毎日美味しいものを食べにいく必要はないにしても、それが気分発散になるのであれば、それは重要だ。なぜ、毎日食事をするのに一人でぼーっと食べないといけないのか。友達や知り合いと毎日食事をしたい。今、ぼくは気分を発散できることがない。
大江健三郎が、家庭/家族のことについて書いてて引用したかったのだが、どこに書いていたか全く思い出せない。家庭というのは一番安心できる場所であるというような類の文章だったのだけど。