家の近くのドッグハウスClub Ken KenにStellaを預けて、聖子ちゃんと2人で久しぶりに出かける。子供を両親に預けてコンサートや映画とかに出かけるカップルってたまに聞くけれどい、こんな感覚なのかな。せっかく一日預けるのだから、どこかでモーニングを食べたいと思ったが、パンとラテが飲めて街のリズムを持った軽快なお店がいいなと思うとうちの周りにはなく、結局六本木まできてしまった。別にたいそうなパンでなくても、クロワッサンとかシナモンロールとかのようなペイストリーでいいんだけれど、意外と自分たちが思うようなスタイルを持ったお店がない。だからといって六本木のここが良いというわけでもないのだが、自分たちの心を少しくらいは紛らわせるというところだ。今こうやって文章を書いていると、こういうものに対して「紛らわす」という言葉、ピッタリだ、とてもいい。リプロダクトとか劣化版に何が求められているのかというと、この「紛らわす」ということだろうか。欲求に対して紛らわしの概念。廉価版や中国製贋物などにも同じことが言える。
こうやって朝どこでご飯を食べる?みたいな話になると、毎回必ずと言っていいほど、じゃあお店するかみたいなことをどちらかが言い出すのだが、なかなか実現しない。ぼくは、「手が荒れる」とか、「私は接客業に向いてない」とかそういうことをお互いに言い出す。ちょっと本気になって、物件を探してみたこともあったのだが、イメージが固まりすぎていて、あまりテンションの上がるポテンシャルを持った物件がないし、それにみあったお金も持ち合わせていないし、結局、毎回のように空想しているだけとなってしまうのである。でも、いつかは自分がお店をするのも割と想像できるなと最近は思ってきた。やるなら、その土地にきちんと根付いて、その場所にある意味と、自分の生活と人々の生活にとってとてもニュートラルなお店をしたい。
で、六本木に到着して、ブリコラージュでクロワッサンとラテに無事にありつけた。なんでわざわざ六本木まできて、モーニングを食べないといけないのかなんて思いながら、じゃあ家の近くにサクッと食べられるところがあるかと言われるとない。なんだかな、普通に生活できないものか。
ブリコラージュも、コロナになってからあまり行ってなかったので、久しぶりに行くと驚くほど目からの情報が多いお店に様変わりしていて、参ってしまった。出前とかUBERとかいわゆるテイクアウェイ企業と連携していることを伝えるシールがレジ周辺にたくさん貼ってあり、支払い金種を明記していたり、それらは本当に必要としているのだろうか。日常をノイズを排除し、スッキリと過ごしたい人は多くなっている一方で、人々はあまり自発的に行動できないようになっているので、表記がないなら自分自身で確認するという認識を持てないのだろうか。これだけじゃないけれど、最近会社で仕事をしていてもお店に行っても受け身の人間が多すぎる。客が受け身だから、店側が変な親切心で伝える情報が多くなってしまうのだろう。それって親切ではないよなと思う。文字を読んだり、絵を見たりする情報の受け取り方だけが全てではない。例えば、ICカードの機械がレジにあることをちらっと見て、支払い方法がたくさんあることを確認できる。そもそも金銭の授受は人間がやっているのだから話せばいいのだ。
客の意識の低さがお店の情報量を増やすのだ。客がお店を支えているのだから、お店側が傲慢な態度で上からお客を見下すように情報を馬鹿みたいに記載する必要はないし、客も毅然とした態度で自分が好きな方法でお店を利用すればいいのだ。
常々思うのだけれど、本来、支払い方法を知りたいのはお店に行く前であって、支払いの直前ではないはずである。例えば、ある人は毎日ランニングをしている。ランニングをするのに財布を持ちたくない、あのカフェはICカードが使えるからカードだけポケットに忍ばせていこうかと考えるだろう。あの八百屋は、ICカード対応していないからブロッコリーを買うために200円だけコインを持っていこうと考えるだろう。犬の散歩だってそうだ。大体の人は荷物を持ちたくない。だからこの世の中では、ICカードが発達しているように思う。じゃあ、別に支払い直前にその情報を知ることに意味があるのだろうか。直前で知ってもその時点ではコインもカードも持っている。だいたい、みんなポイントとか貯めるようになるから色々ややこしいし、別に店側もお客様のポイントが貯まることによって直接的な利益はない。支払い金種がたくさんあるからそこが便利なお店と認識されるようになることも、もうこの時代になると正直存在しないと思っている。だから、ぼくはレジに支払い方法を明記することに対しては、ただノイズを増やしているだけにしか思えない。強くはっきり言ってゴミだ。
「お金の授受は、スマートにしましょう」というのがある種の飲食業の暗黙のルールであって、高級レストランに行けばレジの場所はわからないし、みんなスマートにお支払いをする。なのに、カジュアルなカフェになるとお金を支払いなさいと言わんばかりに支払い方法を明記する。不思議である。世界中のコインが色や形がカッコいいのもやはりお金だからなのだ。スマートであるべきなのだ。
ぼくからすると、そういうことは人がものの置かれ方をきちんと意識しているとわかることではないかなと思うのだ。例えば、通りの真ん中に大きな石が置かれている。明らかにそれは運ばれていた大きな石だ。それが真ん中にあるだけでその道は通行禁止だとわかる。別に「この先通行止め」と看板を立てる必要がない。それを理解する感受性が人々から失われていると派手な注意書きだけがその効果を持つようになる。大きな石はただの邪魔な石と化してしまうのである。
サッカーでも同様で、パスのボールの回転、スピード、強弱、角度、それらパスの出し方によって次の行動を即すものとなる。そこには技術というものが存在するのだけれど、パスの強弱とか、空間に出すか足元に出すか、右足か左足か、ロングボールのボールの回転はどうかとか、細かく見ているとその何気ない一本のパスにはメッセージが必ず存在する。そんなサッカー選手がいるのだ。そういう選手がビジョンを明確に持っていると、チームはどんどんと生き生きするし、日本代表だと中田英寿なんかはそんな選手だった。
そんなことがあるから、サッカーは面白いなと思うし、メッセージは受け取る側の問題でもあるし、観戦していて、その認識がズレたときに「あ、この選手はセンスないな」と感じてしまう。京都の街には至る所に、メッセージがあるし、駐車禁止と言わずに植物が並んでいたりする。それもメッセージだ。京都の街とサッカーの間にはそんな関係が存在する。だから、とにかく街やお店にノイズが多いのは人間の質の低下なのである。
アーティゾン美術館で、柴田敏雄さんの展示を観る。その後、ダバインディアでミールスを食べる。MIKIMOTOヘ行き、パールのネックレスを購入。これはぼくの両親から聖子ちゃんへの結婚祝い。たくみへ行き、大皿を物色し、オーバカナルで一服。で、そのまま聖子ちゃんと別れ、ぼくはbuikカナさんと合流。聖子ちゃんはStellaのお迎えへ行ってくれる。紀尾井町のオーバカナルでbuik7周年のお祝いを兼ねて、アペロ。結局21時過ぎまで話が盛り上がり、その後帰宅。ぼくのnidi galleryでの展示、江藤さんと三部さんの展示、車のある生活、30代の若さ、最近観た映画と、生きる態度などについて話す。カナさんとは感覚が合うので話していて楽しい。時期は少しずれているのだが、同時期にパリに住んでいたこともあり、戦友的な感覚を勝手に持っている。
ぼくからすると、そういうことは人がものの置かれ方をきちんと意識しているとわかることではないかなと思うのだ。例えば、通りの真ん中に大きな石が置かれている。明らかにそれは運ばれていた大きな石だ。それが真ん中にあるだけでその道は通行禁止だとわかる。別に「この先通行止め」と看板を立てる必要がない。それを理解する感受性が人々から失われていると派手な注意書きだけがその効果を持つようになる。大きな石はただの邪魔な石と化してしまうのである。
サッカーでも同様で、パスのボールの回転、スピード、強弱、角度、それらパスの出し方によって次の行動を即すものとなる。そこには技術というものが存在するのだけれど、パスの強弱とか、空間に出すか足元に出すか、右足か左足か、ロングボールのボールの回転はどうかとか、細かく見ているとその何気ない一本のパスにはメッセージが必ず存在する。そんなサッカー選手がいるのだ。そういう選手がビジョンを明確に持っていると、チームはどんどんと生き生きするし、日本代表だと中田英寿なんかはそんな選手だった。
そんなことがあるから、サッカーは面白いなと思うし、メッセージは受け取る側の問題でもあるし、観戦していて、その認識がズレたときに「あ、この選手はセンスないな」と感じてしまう。京都の街には至る所に、メッセージがあるし、駐車禁止と言わずに植物が並んでいたりする。それもメッセージだ。京都の街とサッカーの間にはそんな関係が存在する。だから、とにかく街やお店にノイズが多いのは人間の質の低下なのである。
アーティゾン美術館で、柴田敏雄さんの展示を観る。その後、ダバインディアでミールスを食べる。MIKIMOTOヘ行き、パールのネックレスを購入。これはぼくの両親から聖子ちゃんへの結婚祝い。たくみへ行き、大皿を物色し、オーバカナルで一服。で、そのまま聖子ちゃんと別れ、ぼくはbuikカナさんと合流。聖子ちゃんはStellaのお迎えへ行ってくれる。紀尾井町のオーバカナルでbuik7周年のお祝いを兼ねて、アペロ。結局21時過ぎまで話が盛り上がり、その後帰宅。ぼくのnidi galleryでの展示、江藤さんと三部さんの展示、車のある生活、30代の若さ、最近観た映画と、生きる態度などについて話す。カナさんとは感覚が合うので話していて楽しい。時期は少しずれているのだが、同時期にパリに住んでいたこともあり、戦友的な感覚を勝手に持っている。