なぜ人は、他者に対してそれほどまでに批評的にいられるのだろうか。
ぼくは、よく「お前なんかに言われたくない」とか思ってしまう。例えば、コンビニのコーヒーを日々飲み、その辺の居酒屋で串揚げみたいなのを食べて、毎日ペットボトルばっかり使っているような人に「これはうまい」とか言われてもお前なんかに言われたくない、何を基準に判断してるんだと単純に思ってしまう。そもそも君とぼくのうまいの基準が違うし、全員違うんだけれど、君とぼくとはもっと違う。毎日、ぐうたら意識もなく生きているのに、それでも文句は言う、そんな人に何か言われる筋合いはないといつも思うのだけれど、つい最近、その考え方が自分でも不思議だなと思うのだけれど、どんどんと変化してきた。
ぼくは、よく「お前なんかに言われたくない」とか思ってしまう。例えば、コンビニのコーヒーを日々飲み、その辺の居酒屋で串揚げみたいなのを食べて、毎日ペットボトルばっかり使っているような人に「これはうまい」とか言われてもお前なんかに言われたくない、何を基準に判断してるんだと単純に思ってしまう。そもそも君とぼくのうまいの基準が違うし、全員違うんだけれど、君とぼくとはもっと違う。毎日、ぐうたら意識もなく生きているのに、それでも文句は言う、そんな人に何か言われる筋合いはないといつも思うのだけれど、つい最近、その考え方が自分でも不思議だなと思うのだけれど、どんどんと変化してきた。
これまでは、彼女にも「無視すればいいよ」とか「そんなこと気にしなければいい」とずっと言われてきたし、ぼく自身もそう思うようにしていたのだけれど、無視とか気にしないとかではなく、「ぼくが持てない唯一の視点というのは他者の視点なのである」と気付いてしまったのである。その事実こそが、彼らが他者に対して意見をいう理由であって、だから彼らはどんな生活をしていてもどれだけ生きる態度を持っていなくても、ぼく含む他者に何を言ってもいいのだ。彼らが喜びながら「これはうまい」とか「まずい」とか彼らなりのその彼らの感覚で、彼らなりの言葉で、彼らの意見をいうことが出来る。それは、ぼくとは違う存在である、他者であるからなのだ。人間は、どれだけ近しい存在でもいつまでも他者でしかない。その権利こそが、人間がどんな場所でも他者に何かをいう権利を有する最大の理由なのである。
どれだけ生活をソリッドにしても、思考をシャーオプにしても、どれだけ学んで、どれだけ体験しても、他者に近づくことはできても他者の視点で考えることはできても、他者にはなれないのである。だからこそ、他者の存在と彼らが発する言葉の優位性を理解する必要がある。それが、どれだけ気分を害し、鬱陶しく、真っ当でないと感じてしまってもだ。そこにはぼくが死んでも持ち得ない他者の目がある。そして、この気付きによって、ぼくもこれまで以上に心の底から人の批判をできるようになったような気がする。
どれだけ生活をソリッドにしても、思考をシャーオプにしても、どれだけ学んで、どれだけ体験しても、他者に近づくことはできても他者の視点で考えることはできても、他者にはなれないのである。だからこそ、他者の存在と彼らが発する言葉の優位性を理解する必要がある。それが、どれだけ気分を害し、鬱陶しく、真っ当でないと感じてしまってもだ。そこにはぼくが死んでも持ち得ない他者の目がある。そして、この気付きによって、ぼくもこれまで以上に心の底から人の批判をできるようになったような気がする。