2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.4.28

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2022.4.28

今日も、在廊したらたくさんの方が会いに来てくれた。連日お菓子をいただいたり、お祝いの言葉をもらったり、シンプルに嬉しい。
今日は、大学の後輩まっすが一番最初に来てくれる。最近、日記書いてないというと「いやいや、書いてますよ」と言われたのだが、なぜ書いてないかと言ったのかとふと考えてみた。
自分の中では書く行為というのは、思考をブラッシュアップする作業であり、もしくは発酵させるために手で混ぜる(パン作りで言うところの)作業なのであるが、ここのところそんな風に文章を書いていないということだから、書いてないという感覚がある。やっぱり、ここに記すことは、出来事の記録もそうだけれど、それに付随した自分の思考の動きの記録だったり、思考を頭から一度出すことだったりするのだろう。
だから、ここ書くことは書いてアップする前に言葉を書き換えたり編集し直したり、誤字脱字をチェックせずにアップしてしまうので、そうすることによってぼく自身はリズムを残すことができる。その時の誤字脱字にさえ、ぼくの思考やリズムさえが垣間見えるのだから。それをぼくはノイズライティングと呼んでいるが、そこにあるのはリズムなのかそれとも音だけなのか。
それができていない日々の記録は、書いているのだけれど、書いていないという実感を伴っているので、昔からのこの日記を好きだと言ってくれる人には「いやいや最近あまりかけてないんですよね」と言ってしまうのかもしれない。
ぼくは、ここで思考を言語化したいのである。それが意味を持つ言語の時もあれば、リズムとか感覚を伴った音のような、風のようなもののこともあるということ。写真も言語化しないビジュアルとしての思考で、だからこそ海外に住んでいるときに自分の自己表現として合致した部分はある。だから、やっぱり自分にとって写真は日本国内だけではなく海外で活動するためのものだと思う。
今日、こうやってまっすーが来てくれて、この日記を書いた、書いていないについて考えているとやっぱり自分の中でなぜ写真か、なぜ文章か、ということがよくわかるような気がした。気付きというか本棚に差し込んだ冊子がふと出てきた時のような感覚。