今起きているウクライナとロシアの戦争には根深い問題が複雑に絡み合い、表面的にそこに起きていることだけを受け取りその出来事を見ることが非常に難しい。国民と国が明確に違うものとなっている。国とは国民の集まりであるべきではないか。
さまざまなところや知人たちが、ウクライナへの義援金を求めているのだが、直接的に軍事抵抗をしている国ではなく、移民受け入れをしている国に対して支援するのも一つだろうと少し感じている。真偽のわからないままお金がそこに流れるのはいかがなものかと自分自身は思う。物事を否定するわけではなく、この問題はみんなが真摯に心から優しさを持って意見するべきだ。議論よりも解決がとても大切だ。何よりも、誰が攻撃したとか、攻撃されたとか、メディアで話すようなデマニュースとかそんな真偽はどうでもいいというと言葉足らずであるが、何より大切なのは、人の生活であって人の命なのだ。停戦しか選択肢はない。こういう発言を日々の記録的な文章の中で簡単な言葉だけで記すのはどうも気が引ける部分もあり自分の行動の稚拙さを感じるのだが、それでも断片的に自分のためにひとまず記すことにする。
昨日は、16時間断食をやったので、朝8時にしっかりと食べる。グレープフルーツとグラノーラとヨーグルト。
昼は、しゃぶせんに行く。この頃、体重が減っているので、食べることが義務のような感覚にある。去年の9月から比べると3kg痩せてしまい、55-56kgになった。年末ごろから下止まりし、これ以上減っていきそうにないのだが、数ヶ月で3kgの減少はちょっと不安にさせる。痩せることと色々な体調不良というのが何か病気によって関連しているように思うが、単純にストレスからそうなっているのではないかとも思う。最近、ストレスをどこに発散していいかわからず、よくものを投げたり、お風呂で水を殴ってみたり、大きな声を突然出してみたり、そんな風にしか自分の中のものを消化できなくなっている。それもやろうと思ってするわけではなく、0.1秒前にやっちゃうと気付いて止めることもできずにやっているような感じである。これはひどいと自分自身でも思う。この前もイライラの限界でずっと窓ぎわに座り、窓枠を拳で叩いていた。そのせいでまだ右手が痛い。こうやって言葉にすると恥ずかしいことではあるが、自分自身でもなんでそんなことをするのか、この感情をどのようにすればいいのか、何にぶつけることができるのか、発散するのか、発酵させて違うエネルギーに変えるのか、そんなことが全く理解できずにいる。心と身体が離れている。脳みそさえもそこには存在しないようである。
半年以上続く体調不良に関しても、この溜まり溢れ出しているストレスに関しても、決して誰かが身体を解剖したりして掃除機で吸ってくれたり、データを削除するようにザザッと消してくれたりするわけではないので、自分で自分の身体を不安に思うのであれば、それを自分自身でどうにか解消する必要がある。そんなことは頭では分かっているのだけれど、じゃあ病院に行って先生をどれだけ信頼していいものかというのは不思議である。4つ内科にいっても結局整腸剤とか漢方を処方されるくらいしかなく、もちろん先生もぼくの思考とか身体の中を透視ができるわけでもないし、神様でもないので、まずはそれをやってみてくださいという感覚なのだろうが、それでもその先生のぼくの身体に対するものとぼくのこの自分自身を想う精神的な状態には大きなギャップがある。みんな自分のことを一番想っているし考えているのだから、自分の身体を初めて会った人や何度か会っていたとしても一回3分くらいしか話をしない人に委ねたいとは思わない。思うことができない。それほどでもないと思っているのだろう。ぼくは、ぼくは心と身体がもう遠くに離れている。自分の身体なのに自分のものじゃないような感覚さえある。取り替えれるのではと思ってしまうほどである。同時に、持って生まれた身体によって心の状態もスッキリさせたいと思っている。自分の身体を動かして心をスッキリさせる。身体も触らずに自分のことをどのくらいわかってくれるのか、そんな先生でいいのか、もしくは人間の身体というのは体系的で実は理論的に解決できるのか。ぼくは人それぞれ身体も思考もユニークであることを美徳としているので、そんなことで本当にわかったのだろうかと懐疑的になってしまう。合理的になるということは、ユニークさとめんどくささをどんどん排除することでもある。人間の体をある程度マニュアル的に考え、答えを出すことである種のビジネスにもなるし、より多くの患者さんの助けになるということでもあるのだろうが、では患者さんの立場からするとしっかり向き合ってもらえないと思う事が増えるだろう。それは何事でも同じで、そのもの自体を見ずに経験とか知識だけである程度のことを解決しようというのは傲慢な態度にも感じる。と書いていると、なんだかこれは作品のテーマになりそうだなと感じる。「To Find The RIght Chair」では、体験とか知識というものが今目の前にしているものの見え方に大きな影響を与え精神的な絵を描いているということをテーマにしていたのだけれど、今の気分としては、体験や知識というものを自分の後ろ盾にする、何かものをみたり決めたりすることの柱にすること、それさえも傲慢であって、本当に見るべきものは体験や知識というものを一度取り除く努力をした上で、真正面から毅然とした態度で堂々とその目の前のものと対峙するべきではないかという感覚がある。これはテーマ性が強くていい作品になりそうだ。
東京に来てから人を信じようと思うことができていないと思う。信じたいのだ。人を信じたい。
ただ、ぼくの実感からすると、みんな別に心の底からその人の助けになりたいと思っていないだろうし、あの人がそういうからとか、こうすればそう見えるからとか、そんなことばかり感じられる。もちろん東京ではなく、今のぼくの環境がそうなのかもしれない。とにかくその態度に腹が立って仕方がない。それに加えて、関西との言葉の違いからか彼らから本心を感じ取ることがとても難しい。そんなふうに考えているのだったら、この街から出て行くのが賢明なのではないかと思うのであるが、じゃあ京都に帰ればそれが解決するのだろうか。パリやメルボルン、オークランドに帰れば、もしくは他の国に行けばそれらは解決するのか。じゃあ何をどうするべきなのか。きっと土地が変われば人は変わる。それはぼくの経験上、絶対的である。また経験を後ろ盾にしている自分もいる。
今日は、不思議と肉が食べたいとかではなく、肉を食べたほうがいいのではないかという思考に陥る。出来るだけ肉を食べないようにしているのだけれど、今日は強迫観念のように肉を食べた。しかし、同時に肉を食べていると身体が緊張してしまい、お腹の鈍痛に悩まされる。
夜は、お米を炊いてなめこのお味噌汁を聖子ちゃんが作ってくれていたので、かぼちゃの煮付けと蕪を焼いたものを食べる。
目に入る全てのものに対してイライラするので、寝てしまいたいと思い早めに就寝。
昼は、しゃぶせんに行く。この頃、体重が減っているので、食べることが義務のような感覚にある。去年の9月から比べると3kg痩せてしまい、55-56kgになった。年末ごろから下止まりし、これ以上減っていきそうにないのだが、数ヶ月で3kgの減少はちょっと不安にさせる。痩せることと色々な体調不良というのが何か病気によって関連しているように思うが、単純にストレスからそうなっているのではないかとも思う。最近、ストレスをどこに発散していいかわからず、よくものを投げたり、お風呂で水を殴ってみたり、大きな声を突然出してみたり、そんな風にしか自分の中のものを消化できなくなっている。それもやろうと思ってするわけではなく、0.1秒前にやっちゃうと気付いて止めることもできずにやっているような感じである。これはひどいと自分自身でも思う。この前もイライラの限界でずっと窓ぎわに座り、窓枠を拳で叩いていた。そのせいでまだ右手が痛い。こうやって言葉にすると恥ずかしいことではあるが、自分自身でもなんでそんなことをするのか、この感情をどのようにすればいいのか、何にぶつけることができるのか、発散するのか、発酵させて違うエネルギーに変えるのか、そんなことが全く理解できずにいる。心と身体が離れている。脳みそさえもそこには存在しないようである。
半年以上続く体調不良に関しても、この溜まり溢れ出しているストレスに関しても、決して誰かが身体を解剖したりして掃除機で吸ってくれたり、データを削除するようにザザッと消してくれたりするわけではないので、自分で自分の身体を不安に思うのであれば、それを自分自身でどうにか解消する必要がある。そんなことは頭では分かっているのだけれど、じゃあ病院に行って先生をどれだけ信頼していいものかというのは不思議である。4つ内科にいっても結局整腸剤とか漢方を処方されるくらいしかなく、もちろん先生もぼくの思考とか身体の中を透視ができるわけでもないし、神様でもないので、まずはそれをやってみてくださいという感覚なのだろうが、それでもその先生のぼくの身体に対するものとぼくのこの自分自身を想う精神的な状態には大きなギャップがある。みんな自分のことを一番想っているし考えているのだから、自分の身体を初めて会った人や何度か会っていたとしても一回3分くらいしか話をしない人に委ねたいとは思わない。思うことができない。それほどでもないと思っているのだろう。ぼくは、ぼくは心と身体がもう遠くに離れている。自分の身体なのに自分のものじゃないような感覚さえある。取り替えれるのではと思ってしまうほどである。同時に、持って生まれた身体によって心の状態もスッキリさせたいと思っている。自分の身体を動かして心をスッキリさせる。身体も触らずに自分のことをどのくらいわかってくれるのか、そんな先生でいいのか、もしくは人間の身体というのは体系的で実は理論的に解決できるのか。ぼくは人それぞれ身体も思考もユニークであることを美徳としているので、そんなことで本当にわかったのだろうかと懐疑的になってしまう。合理的になるということは、ユニークさとめんどくささをどんどん排除することでもある。人間の体をある程度マニュアル的に考え、答えを出すことである種のビジネスにもなるし、より多くの患者さんの助けになるということでもあるのだろうが、では患者さんの立場からするとしっかり向き合ってもらえないと思う事が増えるだろう。それは何事でも同じで、そのもの自体を見ずに経験とか知識だけである程度のことを解決しようというのは傲慢な態度にも感じる。と書いていると、なんだかこれは作品のテーマになりそうだなと感じる。「To Find The RIght Chair」では、体験とか知識というものが今目の前にしているものの見え方に大きな影響を与え精神的な絵を描いているということをテーマにしていたのだけれど、今の気分としては、体験や知識というものを自分の後ろ盾にする、何かものをみたり決めたりすることの柱にすること、それさえも傲慢であって、本当に見るべきものは体験や知識というものを一度取り除く努力をした上で、真正面から毅然とした態度で堂々とその目の前のものと対峙するべきではないかという感覚がある。これはテーマ性が強くていい作品になりそうだ。
東京に来てから人を信じようと思うことができていないと思う。信じたいのだ。人を信じたい。
ただ、ぼくの実感からすると、みんな別に心の底からその人の助けになりたいと思っていないだろうし、あの人がそういうからとか、こうすればそう見えるからとか、そんなことばかり感じられる。もちろん東京ではなく、今のぼくの環境がそうなのかもしれない。とにかくその態度に腹が立って仕方がない。それに加えて、関西との言葉の違いからか彼らから本心を感じ取ることがとても難しい。そんなふうに考えているのだったら、この街から出て行くのが賢明なのではないかと思うのであるが、じゃあ京都に帰ればそれが解決するのだろうか。パリやメルボルン、オークランドに帰れば、もしくは他の国に行けばそれらは解決するのか。じゃあ何をどうするべきなのか。きっと土地が変われば人は変わる。それはぼくの経験上、絶対的である。また経験を後ろ盾にしている自分もいる。
今日は、不思議と肉が食べたいとかではなく、肉を食べたほうがいいのではないかという思考に陥る。出来るだけ肉を食べないようにしているのだけれど、今日は強迫観念のように肉を食べた。しかし、同時に肉を食べていると身体が緊張してしまい、お腹の鈍痛に悩まされる。
夜は、お米を炊いてなめこのお味噌汁を聖子ちゃんが作ってくれていたので、かぼちゃの煮付けと蕪を焼いたものを食べる。
目に入る全てのものに対してイライラするので、寝てしまいたいと思い早めに就寝。