イライラのピークを超えて、もう感情をどこに向ければいいかわからないという状態。
自分が、何が好きで何を趣味としどんな美意識を持って生きているのか譲れないことは何かそんな生きるスタイルさえも見失っているような感覚がある。こんな泥沼にハマったような感覚は初めてだ。全て自分の選択肢のはずなのにそれらが全て自分のものではないような気もする。焦りもあるし、とにかく身体の感覚と心の感覚、頭の感覚全てが全部違う方向へ向いているような気がする。ふと涙が出てくる。ぼくは、こんな生き方をするために生きてきたのか、人の奴隷のような生き方をしたいのか、奴隷のように扱う人間たちのために存在するのか。確認作業はどれだけ大切なのか、なぜ人の許可が必要なのか、自分自身の意思はそこにないのか、自身のなさなのか、自信を奪われたのか、誰からも認められず、怒られもしないという孤立した状態なのか、自分自身のせいなのか、周りの環境のせいにしてはいけないか、一緒にいる人のせいにはしてはいけないのか、自分の意思決定くらい自分でするのが人間だ、同時に自分の意思決定以上に尊重したいものがあったとしてもそれは人間だし、自分の意思がその人の意思と合わないのであればすり合わせをするべきだし、すり合わせをしたくないのであれば一緒にいる必要はない。そんなことを考えていると、人生に絶望する。生きる意味とは、これからの明るい未来というものはあるのか、時間が過ぎればそれだけまた違う視野も出てくるからそれだけが楽しみだというが、今の人生に何か変化を生めるようなことが起こせるだろうか。こんな精神状態で環境が継続するのであれば、それを自分の力で打破するしかないのだろうが、自分の力だけではどうにもならない時にどうすればいい。誰か手を差し伸べてくれないのか。ぼくに友達はいるか、心から信頼できる人がいるか、心から信頼されていると思ってもらえてるだろう人が何人頭に浮かぶのだろうか。それだけの行為をしているだろうか。誰もぼくを気の許せる人間だと思っていないかもしれない。それは、ぼくが彼ら彼女らに対してそう思っているからなのか、いやそう思っていなくとも心の底から力を抜いて向き合っていれないのかもしれない。怖い。自分の生き方は一生こうなのかと思うと生きている価値は何か、人との関係ではなく、自分が親からもらった生をどれだけ全うできるかしかない。その感情がある限り、死ぬことはできない。生を全うすることが激しく燃えることとはイコールにしたくない、色々な苦難や喜びに対して自分の生をどれだけぶつけられるかなのだ、悩むことだってそれはぶつかっているとぼくは思っている。だから、ネガティブだからよくないとか、見失っているから悪いというのはないのではないか。それも人間だ。ぼくは他人のそれさえも受け入れてあげたい。受け入れないことには誰にも受け入れられることはないのだろう。絶望的だ。それでも、ふとiphoneをスクロールしていると出てきたメッセージ「そんな時には心を無にして喜べることをしよう」に救われたような気持ちになる。それは、ぼくにとって何か、趣味というものが無くなったような感覚さえある今の現状に対した問いのような気がする。
自分が、何が好きで何を趣味としどんな美意識を持って生きているのか譲れないことは何かそんな生きるスタイルさえも見失っているような感覚がある。こんな泥沼にハマったような感覚は初めてだ。全て自分の選択肢のはずなのにそれらが全て自分のものではないような気もする。焦りもあるし、とにかく身体の感覚と心の感覚、頭の感覚全てが全部違う方向へ向いているような気がする。ふと涙が出てくる。ぼくは、こんな生き方をするために生きてきたのか、人の奴隷のような生き方をしたいのか、奴隷のように扱う人間たちのために存在するのか。確認作業はどれだけ大切なのか、なぜ人の許可が必要なのか、自分自身の意思はそこにないのか、自身のなさなのか、自信を奪われたのか、誰からも認められず、怒られもしないという孤立した状態なのか、自分自身のせいなのか、周りの環境のせいにしてはいけないか、一緒にいる人のせいにはしてはいけないのか、自分の意思決定くらい自分でするのが人間だ、同時に自分の意思決定以上に尊重したいものがあったとしてもそれは人間だし、自分の意思がその人の意思と合わないのであればすり合わせをするべきだし、すり合わせをしたくないのであれば一緒にいる必要はない。そんなことを考えていると、人生に絶望する。生きる意味とは、これからの明るい未来というものはあるのか、時間が過ぎればそれだけまた違う視野も出てくるからそれだけが楽しみだというが、今の人生に何か変化を生めるようなことが起こせるだろうか。こんな精神状態で環境が継続するのであれば、それを自分の力で打破するしかないのだろうが、自分の力だけではどうにもならない時にどうすればいい。誰か手を差し伸べてくれないのか。ぼくに友達はいるか、心から信頼できる人がいるか、心から信頼されていると思ってもらえてるだろう人が何人頭に浮かぶのだろうか。それだけの行為をしているだろうか。誰もぼくを気の許せる人間だと思っていないかもしれない。それは、ぼくが彼ら彼女らに対してそう思っているからなのか、いやそう思っていなくとも心の底から力を抜いて向き合っていれないのかもしれない。怖い。自分の生き方は一生こうなのかと思うと生きている価値は何か、人との関係ではなく、自分が親からもらった生をどれだけ全うできるかしかない。その感情がある限り、死ぬことはできない。生を全うすることが激しく燃えることとはイコールにしたくない、色々な苦難や喜びに対して自分の生をどれだけぶつけられるかなのだ、悩むことだってそれはぶつかっているとぼくは思っている。だから、ネガティブだからよくないとか、見失っているから悪いというのはないのではないか。それも人間だ。ぼくは他人のそれさえも受け入れてあげたい。受け入れないことには誰にも受け入れられることはないのだろう。絶望的だ。それでも、ふとiphoneをスクロールしていると出てきたメッセージ「そんな時には心を無にして喜べることをしよう」に救われたような気持ちになる。それは、ぼくにとって何か、趣味というものが無くなったような感覚さえある今の現状に対した問いのような気がする。