2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.3.4

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2022.3.4

ウクライナとロシアの戦争(これは戦争というか、侵略というか非常に難しいけれど、ぼくはウクライナも市民が攻撃しているので戦争という認識をしている)は、どんどん泥沼化しているように思えるけれど、情報が簡単に発信できる世の中において認知することとか、情報源がどこにあるのか、誰なのか、しっかりと自分で選択していかなければいけない。ただ、一般市民からの発信はとてもリアリティがあり、心を痛める情報ばかりだ。
市民は避難するように条約で決まり、ロシア側も攻撃しないというが、国に市民以外の何が存在するのだろうか。市民の集まりが国であり、市民がいなくなったときにそれは存在するのかと疑問に思う。そういうルールが決まった時点で、ぼく自身はある種の自国への幻滅というか、そんな感覚さえ感じる。国家を守りたい人は、国民市民を守りたいのではなく、何か違うものを守ろうとしているのではないかと思ってしまう。軍隊の隊員たちは一市民ではなくなるのか。軍隊と軍隊の戦いの中でそれに巻き込まれる市民がいないと思うのだろうか。ルールはあるようでないというか、ルールは言語化して共有されているが、そのルールは簡単に破ることさえできる。ましてや、頭に血が上った状態の人が赤信号を渡ってはいけませんというルールを守れるわけがない。極端な例えではあるが、ルールとは条約であり、憲法というものと位置つけられるだろう。
そんな中で、もちろんその国際的な中で公に決められたルールの中で、ルールを破らずにいれるかという自分の良心とか意識を保つことができるか、それがなくなった時には人々は野生化してしまうのか。
Afloに展覧会用の写真を取りにいく。想像と全く違う出来上がりに驚愕してしまう。人の手によって作品を完成させるというのは正直とても難しいなと思った。色の調子がこうで、といっても一人一人持っている目も見ている点も違うので、それが違えば作品も全く違うものとなる。すり合わせがかなり必要になりそうだ。今までプリントしてくれていた古賀さんが不在なので、すり合わせが難しい。感覚の共有というのも必要になる。結局自分ですることになるのだろうか。
夜、田園調布で仕事をしていたYAECAのマイちゃんが家に立ち寄ってくれる。カボチャのパスタを作った。ぼくは、16時間断食をしているので食べず。味見ができずに料理をするのは難しいなと単純ながらに思った。無意識で口で色々なものを確認している。パスタの硬さだとか、味の調子だとか。そういう意味では人間も犬と近いのだなと思った。一度口に入れてもうえっとなれば出すのだから。
動物の根源的な部分はどれだけ人間の脳が発達しても変わらないのだろう。