2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.12.5

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2021.12.5

8時ごろ家を出ようとするとフットブレーキがなくなるという不思議な出来事が起きる。駐車場から家までの5分間のドライブの後、家のまえに車を停車させ、家に聖子ちゃんを呼びに行く。支度が終わっていなかったので、ぼくももう少しだけ支度をする。カナさんとの待ち合わせの時間を過ぎているのに、あまり急ごうとしない彼女を見て少しイライラするも準備を焦らすのもよくないなと思い落ち着いた素振りを見せる。机の上の整理をする。こういう数分の時間こそがテーブルを整理するのにはちょうど良い時間となる。そういう時にこそなんでかはわからないけれど、整理の道筋が明確に見えるのだ。準備が出来たようなので、靴をアシックスのスニーカーからナイキのスニーカーへ履き替えて、家を出た。
車に乗り込み、エンジンを入れる。今の車は鍵をさして、エンジンを入れるということはしない。鍵をポッケにしまっておいて、ボタンを押せばエンジンが入る。急いで出発しようとするもフットブレーキがない。足で感覚的に蹴ってもないので、覗き込むも、見当たらない。鍵を開けて家で準備をしていたので盗まれたかもしれないと彼女にいうも、彼女も朝の時間をバタバタと過ごしたのか機嫌が悪そうである。ぼくだって走って車を取りに行ったのに帰った頃にはまだ準備をしていない。なぜ機嫌悪くなられないといけないのか。まあ、そうやってこれまで過ごしてきたからきっとこれからも一生そうである。それはそうと、フットブレーキだ。ないのである。映画の見過ぎか、ただ寝ぼけているのか。確かに駐車場から出る時はフットブレーキを蹴り出してアクセルを踏んだ。家の前に駐車した時にも、フットブレーキをしっかりと踏み込まないと坂だから下ってしまうのではと思ったのを覚えている。確かにそれは覚えている。しかし、踏み込んだかどうかを感触としては思い出せないのだ。駐車場から家までの5分間に何かがあったのか、家にいる10分くらいの間に盗難にあったのか。いや、もしかするとアシックスの靴からナイキの靴に履き替えたので、靴の裏についているのではないか。ウディアレンの映画に出てきそうなくだらない話である。レンタカー会社に電話する。
「嘘みたいな不思議な話で申し訳ないんだけど、フットブレーキがなくなりました。20分前くらいに駐車場から出して、家まで5分くらい運転して、荷物をとって乗り込んだらなくなっていました。さっきまであったはずなんだけれど」と言ってみる。
すると、コールセンターの30代くらいの背の高そうな低い声を持つ男性が「無くなることはございません。」冷酷なまでに抑揚がない一言に怖気付いてしまい、再度覗き込むと、フットブレーキはあるべき場所にあったのだ。「あ、これかな。出てきました。ありがとうございます。」
「あのーお客様、ご連絡いただいているのは事故センターですので、今後このようなご質問は03から始まるお電話番号におかけください。」フットブレーキが足の裏についていたこの事件をつまらないよと言わんばかりの人間らしい冷酷さである。
急いでカナさんのいる外苑前のcity bakeryへ。ソイラテとコーンブレッドマフィンを食べて、箱根ポーラ美術館へ。
色々なレストランへ電話するもことごとく断られ、聖子ちゃんが見つけてくれた牧歌的なピザ屋さんへ。そこは、レンガ小屋のような造りで、入り口にはクリスマスの鐘が飾られている。入り口の扉は2重になっており、入ると暖炉があり、この土地の冬の寒さをそのような造りから感じられる。もう店内は、クリスマスムード一色で、暖炉のまわりにはプレゼントが置かれ、サンタクロースが置かれ、クリスマスデコレーションが施されている。店員さんは白とくろのボーダーのティシャツを着ていて、胸にピッツァのピンを付けていた。いかにも忙しかっただろう空気と空になったワインボトルやグラス、クシャッと丸められた白いクロスがテーブルの上で片付けられるのを待っているようだった。窓際の席では、老夫婦がかなり早めのクリスマスチキンのようなものを幸せそうな顔で食べている。
ピッツァは正直普通だったけれど、それ以上にここにあるピュアな想いとか、信じる力というものを感じすぎてしまって感動してしまった。都市ではない街にあるレストランはこんな風にあって欲しいなと思うようなものであった。
フジヤホテルへ行き、カフェ。話し込む。お腹いっぱいなのだけれど、海も見たいと思い、平塚へ。お気にいりの花水ラオシャン。湘南ベルマーレがJ1残留を決めた試合の翌日だったこともあり、なんだかイギリスのパブのようにこの土地のコミュニティの中心にあるように感じられ、妙に感動してしまった。優しい花水ラオシャン。
第三京浜から首都高に乗り、渋谷に降り立った時に妙な気分になってしまった。大学生の頃に夜行バスで東京に来てJR山手線に乗った時の感覚というか、なんだか重苦しい妙な小汚さというか、そういう風な言葉には形容し難い、感覚が蘇る。ラスティーな汚さとかそういうのではなく、コンビニなどの独特の色合いによる嫌悪感からくる汚さや家電に溜まる埃のような、人工的な、勇気的ではない汚さというものを感じずにはいられなかった。