2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.10.9

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2021.10.9

夜は、英語のレッスン。今日は、自分が苦手としている自分の特徴について話すことと、職業においてどんな能力が必要かという議題。今日の先生Geryは全員に平等にチャンスを与えるタイプの先生だったので、挙手制ではなく、順番にあてていく学校のような方法のクラスだった。とにかく、特徴を話すのが苦手なので、これを克服しないといけないのだけれど、自分の興味のないこととなるとぼくは全く話せないし、興味すら持てない。
エンバイロメントエンジニアにどんな能力が必要で、ファイヤーファイター達にあるけれど、サイエンティフィックリサーチャーにない能力とは何か。他の生徒たちは日本人も含め、色々ときちんと答えを出すのに対して、ぼくは日本語でも全く答えが出てこない。
ファイヤーファイターには、チームワークと自分がすることを明確にするという道筋立てする能力が必要で、サイエンティフィックリサーチャーにはいろいろなものに対して疑問を持ったり、疑ったりする能力が必要だと言っていた。正しすぎる。ぼくは、そういう風に考える能力が皆無だからきっと人のことを理解したり、人と仕事をしたり、自分がしたいと思うことが見つけられなかったり、見つかったとしてもそれに対して何をすればいいのかを明確に出来ないのだろう。とクラスを受けながら自己嫌悪に落ちてしまう。そして、使うべき単語が表示されているにもかかわらず、自分が使ってこなかった単語なのでうまく使うことが出来ない。(それが学びで、それをするためのクラスなのだけれど)簡単なそれっぽい単語でごまかして終わらせる。これがぼくの人生のような気がしてかなり落ち込んでしまった。
自分が本当にしたいことをきっちりとやるという能力を身に付けず、自分がしたいと思っても人に遠慮をしている。ありものでなんとかする能力が高くなっているのは事実で、それならそれでいいんだと思うことが多くなっている。それが生きていくためには必須だったのかもしれないが、僕にとって今とても大切なのは、自分がしたいことを時間をかけてでもいい、お金がかかってもいいから得て100%に行うこと。
100個のなんとなくオッケーよりも1つの最高傑作といつも思っている割には、実際の行動に移せていないのだ。それが現在のぼくの自分自身に対しての評価である。自分に甘く同時に人にも甘い。弱いだけなのだ。そうしていると世の中の多くは酷い方向に舵が切られているのではないか。
サッカーを観ててもそう思うのだ。選手だけではなく、批評家、サポーター、観戦者、全ての人々個人個人の意思が弱いのだ。なんとかなると思っているのである。昔は、空港で選手に水をぶっかけたサポーターがいたが、それくらいの熱いものを自分自身は持っているだろうか。人に嫌われてもいい、それでも自分の伝えたいことを熱心に進められるだろうか。
別にぼくには友人なんていないのだ。誰も助けてくれない、きっと自分がいなくなっても数日悲しんでおしまいというような人間しかこの世の中には存在しないのだ。だから、それであれば嫌われることに何を怯える必要があるのだろうか。ごろつきながらでも何をしながらでも生きていける。ぼくは結局一人ぼっちで孤独なのだ。