2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.10.10

Translate

2021.10.10

ぼくの他人への期待は常に裏切られる。例えば、こんな日常的な朝がある。
彼女の眠りの邪魔をしないこと、彼女と一緒に朝からコーヒーを飲みたいこと、その二つが抱える矛盾からぼくが解き放たれる朝はいつかくるのだろうか。
ぼくは、いつも通り6時過ぎに起きる。
彼女が起きるのを待つが、起きてこない。別に「朝起きたら一緒にコーヒーを飲みましょうね」と約束をしているわけではない。ただ、彼女はいつだって朝からぼくと一緒にコーヒーを飲むのを好んでいるし、特に今日は昨日美味しいパンオショコラを2つ買ってきてくれていたのだから、これは約束なしにも朝起きて一緒にコーヒーを飲むんだということになる。
ぼく個人的なことをいうと、本当は朝6時半からコーヒーを飲みたいのである。厳密に言うと、コーヒーが飲みたいわけではない。人々が動き出す前の時間が持つ独特のその冷たくソリッドな空気が好きだし、何よりそこにフィルターコーヒーの香りが漂う瞬間を愛している。決してコーヒーを愛しているわけではない。日本に帰国して以来、この日本の、東京のモヤッとした身体にまとわりつくような空気に常に違和感を感じている。だからこそ、ぼくは6時台だけが持つその空気に触れることだけが、自分の心をいるべき場所を思い出させてくれるような気分にさせてくれるのだ。
一時間以上我慢して、一向に起きてこない彼女を起こしに行く。愛の言葉をささやく。それは決して嘘ではない、時間が許すのであれば、彼女を眺めながら、ずっとそうしていたいと思う。しかし、仕事にいかなけばならない朝はそうはしていられない。目覚めたのを確認し、「コーヒー飲む?」と尋ねる。いや、最近は「コーヒー出来たよ」と伝えるようにしている。その言葉の持つ意味は大きく異なる。前者は、問いかけであり彼女の言葉次第ではぼくの夢は完全に打ち砕かれることを意味し、後者は、彼女に起きる勇気を与えるものとなる。最近のぼくは、出来るだけ彼女の答えを求めるようには問いかけず、「こうしている、ああしている」というような「ありがとう、私もそうするね」と一言で済むような問いかけをするようにしている。
6時半の時点でケメックスにフィルターをセットし、挽いたコーヒー豆をフィルターに入れ、ケトルにお湯を沸かしている。起き抜けにケトルにお水を入れ火にかける。お水を二度沸かすのがよくないということは知っているし、挽きたての豆がより香りを立たせてくれることもわかっているのだけれど、ある国のどこかで毎日行われている儀式のようにぼくはこうやって彼女が起きてくれるのを願うのだ。7時半を過ぎたのを確認して、ぼくは、お湯を沸かし直して良い温度になったところでコーヒーに注ぎ入れる。コーヒーができたところで、ベッドルームに行き、一向に起きてこない彼女を起こしに行く。愛の言葉をささやく。いつも通りだ、その瞬間に嘘はない、時間が許すのであれば、彼女を眺めながら、ずっとそうしていたいと思う。しかし、やっぱり仕事にいかなけばならない朝はそうはしていられない。目覚めたのを確認し、「コーヒー出来たよ」と伝えた。「ありがとう、起きるね」この言葉を聞いてキッチンへ向かう。
ベッドルームから出てくる彼女は、キッチンにいるぼくにニコッとし通り過ぎてバスルームへ向かう。コンタクトもメガネもしていないからその時の彼女には何も見えていないはずだ。それから、彼女は口をゆすぎ、コンタクトをつけてダイニングに戻ってくる。ぼくは、ベランダでコーヒーを飲んでいる。その時点でぼくには家を出るまで20分くらいしかない。いつもこうなのだが、ぼくは彼女とコーヒーを飲みたいと思うから、目覚めるのを待っている。彼女は自分自身では起きてこない。もう決してと言っても良いくらいだ。
ぼくは、何をするでもなく6時半から7時半までの間コーヒーをただただ我慢するだけなのだ。そんなに柔軟な人間ではないので、ベランダでコーヒーを飲まないと何も始められないのである。そして、ぼくは6時台だけが持つ独特のその冷たくソリッドな空気を求めている。そして、そこにフィルターコーヒーの香りが漂う瞬間を愛している。コーヒーを愛しているわけではない。
そして、ベランダで一緒にコーヒーを飲む。「このパンオショコラ昨日の方が美味しかった、今日のは全然美味しくない」
「そんなことないよ、もう少しバターが多いといいかもね」
「そういえば、今日こんな夢を見たんだ。海外出張に行こうとするんだけれど、いつも通り小さなバックパックを背負って白い無地のティシャツと黒いシャツしか着ていなくて、空港でパスポートもスーツケースも全て手に入ると思っていたんだけれど、もちろんそんな訳はなかったんだ。
空港でパスポートを持ってなくて、困っていたら安倍前首相がもうパスポートは警察署で買える時代になったんだよ、教えてくれた。それで新しいものがすぐに作れるんだ、と。捕まるんじゃないの?と聞くと、「一か八かだけどやってみる価値はあるよ」と言われた。
なんでかわからないけれど、その話に乗り、口髭を蓄えたひょろっとしたメキシコ人がパスポートに使われる紙をロールで持ってきて、「いや無理だよ」とぼくはツッコミを入れた。上司からそのボーダーは違いますとメッセージが入る。
といったところで目が覚めたんだ。」
と話すと、
ため息まじりに「人のつまらない話を朝から聞かされる気持ちになって」と文句を言われる始末なのである。そんな彼女とぼくは結婚しようとしているのだ。
ぼくが朝からコーヒーを一緒に飲むことを心待ちにしていた気持ちは、彼女には関係ないのだ。ぼくの他人への期待は常に裏切られるということ。
ぼくは、そう言われた瞬間怒りを噛みしめ、目を瞑った。そして、8時の時計の音がなったので、キッチンに行く。出来るだけ怒りを抑えていたのだけれど、我慢出来ずに食べかけのパンオショコラを静かにシンクの中に置き、あと少し飲み残していたコーヒーをパンオショコラの上からかけ、白い無地のティシャツの上に黒いシャツを着てバックパックを背負って無言で家を出た。あと、少しの嫌味を込めて外から鍵を閉めた。