2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.10.8

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2021.10.8

昼は、公園でお弁当。
夜は、たらこパスタとカブの茹でたものを食べる。
聖子ちゃんが帰ってきた。正直に言うと、久しぶりに顔を見て嬉しさと同時になぜか少し不思議な気持ちが襲ってきた。ぼくは彼女と結婚するのだ、そしてこれからもこれまでの9年間と同じように一緒に住んで暮らしていくのだ。なんだか、10日にいないことに悲しみに打ちひしがれて、彼女が京都で体調を崩したと聞き、悲しさで涙が溢れそうになっていたはずなのに、そして、その前にはご両親に会い、ぼくの両親とも食事をし、色々と幸せなことが立て続いて喜びであふれていたはずなのに、今日なぜかこれまで感じたことのない違和感を感じている。突然、誰か自分と違う人が家に一緒にいることに違和感を感じている。それは、ぼくが人とほとんど話さない日々を過ごしていたからか、彼女との未来に対する不安なのか、本当に二人で生活していけるのだろうかということなのか、それは彼女だから違和感なのか、誰でも違和感なのか、マスクをしていない人の顔を久しぶりに見たからなのか。彼女の顔も少し違うように感じる。数人の知人とカフェで話したり、同僚と話す程度以外にはこの10日間ほどは誰とも過ごさず、Instagramをやめ、ニュースを見るのをやめた。そうやって目の前に存在するもののみに自分の感覚を研ぎ澄ましたいと思った。
この違和感は、何によるものかはわからないのだけれど、未来への不安によるものが大きいのかもしれない。愛していることは揺るぎない。心の底から彼女を愛している。
色々なものを乗り越えて、自分で自分なりの決断をし、そんな大袈裟にいうとそんなにしないと私と一緒にいれないのかと言われてしまいそうな気もするが、実際そうなのだ。自分のとってこれほど大きな決断になると思ってもなかった。
本当に正しい決断なのか、そんなことは誰にもわかりはしないし、正しいこととは何かもわからない。ただぼくは今自分がしたいと思う正しい決断をしたと心の底から思っている。
その後、面白いことが起きた。
京都のお土産に一保堂のほうじ茶を買ってきて欲しいと思っていて言い損ねていたのに、買ってきてくれていたり、聖子ちゃんが前に買おうとしていたAu Bon Vieux Tempsのコンフィチュールをぼくが聖子ちゃん不在の時に買っていたり、そういう言葉のない意思の疎通があることが色々なぼくの不安を解消してくれたような気がした。こういう出来事が起きると、やっぱり聖子ちゃんといることは幸せだなと思えるのだ。これは誰にでも誰との間でも起きるものではない。ましてや血がつながっているとかそういうものではない。赤の他人が各々の生活の中で出会い、お互いを愛し合って一緒に暮らした中で出来上がった阿吽なのである。聖子ちゃんと生活するのは、幸せで愛おしいことなのである。
こういうことがある、それが起きるだけで幸せだ。