2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.8.20

Translate

2021.8.20

京都大学名誉教授の川村隆先生がコロナウィルスについての考察を書いていたのであるが、ワクチンの効果を相対的リスク減少と絶対的リスク減少の視点で書いていて少し冷静になった。
まず、現状日本において年間1%あまりの人がコロナウィルスに感染するとされている。(もちろんこれからどんどん増える可能性も減る可能性もある。)その中でワクチンの効果というのは90%なので、ワクチンによる相対的リスク減少というのは90%、しかし絶対的リスク減少というのは0.9%であると。すなわち摂取対象者の0.9%に恩恵があるというのだ。自然経過では感染しないおおよそ99%の人には直接的には恩恵はない。しかし、コロナウィルスのケースでは誰が感染するかわからないので、接種者の多くに安心感をもたらす効果はある。一方で、副反応や未来での不安は大半の人に降りかかってくる問題なのである。
そんなふうなことを読んだ後に、色々と考えていると、日本では物事の多くは相対的判断によってなされていて、絶対的判断をしている人はかなり少ないように思えてならない。自分もそうだ。
これまでの自分は相対的な判断をすることによって「being independent」と思って進んできたが、実際は、「being independent」という思考は、他社の存在があるからある感覚なのだ。それは相対的に物事を考え、自分が社会においてどういう風な立ち位置かを考えてきたのだが、今のぼくに必要なのは絶対的な判断である。
自分が何をしたいか、どうしたいかということ、人がどうとかこうとかというのは全く関係ない。自分自身で独立した理想と目標を掲げること。相対的に自分の判断するのではなく、絶対的判断をすることが今のぼくにはとても大切だと思っている。

18時半ごろ古賀さんのところへいき、プリントチェック。いろんなパターンのプリントを試す。ぼくは、アナログカメラで撮影しているが、プリントは、ネガ焼きではなく、インクジェットでの印刷なので、その折り合いをどうつけるかというところに非常に悩んでいる。
Photoshopで修正を加えるとなると、絵作りにはどこまでも無限の可能性を持っていて、作りたい絵を作ることは可能になってくるような気がする。もちろん、元となる写真が撮れていることが前提にはなるのだが。
しかし、photoshopをしていくとその分自分からどんどんと離れていってしまうような感覚があり非常に怖いし、違和感を感じている。
じゃあ、ぼくはなぜネガ焼きをしないのにアナログカメラで撮影しているのかというと、アナログカメラに直接的であると感じるからであり、その単純ながらに完成されている状態が好きである。光を通し、ネガに絵を焼き付ける、ネガを通して絵を浮かび上がらせる。そんな行為が単純であり、かつ既に完成形なのである。
夜は、聖子ちゃんと『ティファニーで朝食を』を鑑賞。オードリー・ヘップバーン自身が美人であるということを除くと、ぼくには何をどう見たらいいのかわからなかった。オードリー・へップバーンの映画内での振る舞いも女性らしさも、遊び方も、なんだか好きな女性像とは一致しないからそれほど響かなかったのかもしれない。ぼくは、10代の頃に観たフランス映画の影響なのか、美しさだけではなく、気分屋な媚びない女性に憧れているので、色気を振りまくオードリー・へップバーンにはあまり魅力を感じないのだ。それは、オードリー・ヘップバーンではなくアメリカ映画における女性像なのかもしれない。