2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.8.11

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2021.8.11

弟が逃走したらしい。いろいろ溜まっているところもあるのだろう、そしてもう実際に面倒を見ているという親が面倒を見てもらっているという日も近いくらいの年齢になっている。お互い様だろう。人間の正解なんてないのだから、なんだって生きていければ、楽しく自分のしたいことをすることができればそれで良いのではないかと思う。人に迷惑をかけてもいいけれど、心配されるのはよくないと思う。あいつなら大丈夫だろうと思ってもらえることは大切。

今日は家族がお盆で岐阜に行っているのだそうだ。ぼくは最近全く行けていないので、どこかのタイミングで岐阜にお墓参りに行かなければならない。
大学まで真面目にお盆休みを過ごしていたが、海外での生活を機にほとんど行く機会を失ってしまっている。
昔、父方のおばあちゃんが牛肉のしぐれにだとかシャケだとか、卵焼きだとかお弁当を作ってくれていて、それを食べながら朝から車で岐阜に向かっていた。クーラーボトルに冷えた飲み物を入れて、なんだか楽しかったのを今でも覚えている。あの感覚がいつから亡くなってしまったのだろうか。おじいちゃんが亡くなる前にももう既になかったように思う。それには僕の両親の仕事が忙しいとか、そういうことも少なからず影響があり、お盆休暇をお盆にとらなくなったことも影響していると思う。
仕事は素晴らしいものを家族に持ち込んだが、そんな子供の頃に持っていた楽しい感覚を失わせてしまったのかと思うと複雑な気分になってしまう。
決して責めているわけでもなければ、悲しんでいるわけでもない。時代がそうさせたというのもあるだろう。谷汲山の旅館で温泉入ってあゆの塩焼きを食べていたことも、谷汲山のお寺の真っ暗な地下を歩いていたのもすごく鮮明に思い出せる。高校野球をラジオで聞いていた頃も、今ではものすごく過去のことのようだけれど、たった20年ほど前の話なのである。変わらないものがあり、色あせていくものがある。あの頃は、もっと周りの人たちも含めて自由で楽しく元気だったように思うのはぼくだけだろうか。